おとなの小論文教室。 感じる・考える・伝わる! |
Lesson231 「おわび」の時間 たいていのことは、とりかえしがつく。 いったんは切れたと思った人との関係も、 またつながっていく。 ここのところ、そんな、 「再生」について考えていた。 そこをつなぐのが「おわび」ではないだろうか? 人の心は傷つきやすく、ちょっとしたことで離れてしまう。 私も、ここ数年、人前で表現をするようになってから、 より繊細になった。 心のせまさを露呈するようで恥かしいが、 人のちょっとした言葉に傷つき、 その人との間に、決定的な距離を 感じてしまうようなことが、何度かあった。 でも、このところ、 私の中で、その糸が、またつながる という再生が、たてつづけに起こった。 自分の心は繊細で、ちょっとしたことに傷つく、 でもまた、ちょっとしたことで治るんだ、 何もなかったように、相手とまた心が通いはじめるんだ、 ということを実感し、希望を感じている。 今回の再生の機会として、 相手がくれたのは、 ことばだった。 ある人は、メール、 ある人は、ハガキ。 どちらも、謝罪のことばも、派手な懺悔もなにもない、 とてもさりげない、おたよりだったが、 これらには、一発でつながった共通点があった。 どちらも、「利他」、つまり 私のことを考えての発信であったということ。 時間を上手にみかたにつけていること。 つまり必要なだけの「間」を置いて、よい時期に届いた。 傷つけてしまったそのこと自体は償えなくても、 等価の「嬉しい気持ち」を 私に与えようとしてくれていたこと。 瞬間で、ぽっ、とあったかい気持ちになった。 一方で、つながらないおわびも、 このごろは、よく見かける。 それは、「私が悪かった。私が、私が……」 と、必要以上に自分を責めるおわびで。 最近、そういう人がとても多いように思う。 「自虐おわび」と言ったら言いすぎだろうか? そういう人は、おわびと称して、 「自分探し」をしているような節がある。 例えば、職場でミスをして先輩に叱られたようなとき。 「私が悪いんです。 私は、こういう点が至らないし、 私は、こういう知識が足りないし、 私は、どうして、こんな…… 私は、なぜ、あのとき……」 というように、理由を説明しているような、 自己分析をしているような、 だんだん懺悔のような、 自分を責めるというか、自分の悪を吐露する感じになり、 しかし、自分の釈明をしているようにも見える。 やがて、落ち込む。 ひどいときは泣いたり、会社にこなくなったり。 その間、周囲を暗くさせていること。 周囲の仕事の手を滞らせていることに気づかない。 迷惑をかけられた先輩のほうが、 慰めたり、はげましたりして、なぜか奉仕している。 やがて、立ち直ると、なぜか決意表明をする。 「私は、こうなれるようにこれからがんばります!」 一人でミス出して、 一人で落ち込んで、 自己分析したり、懺悔したり、釈明したり、 やがて、一人でスッキリして、一人で決意表明をして。 その間、周囲をふりまわして。 こういう姿をみていると、 「おわび」の時間はだれのためにあるのだろう? と思う。 おわびの時間は、自分のためではなく、 利他。 迷惑をかけた相手のために費やすものだ。 そのことを私に教えてくれたのは、高校の部活の先輩だ。 それは、私が18歳の春。 高校を卒業して、大学に通い始めたころだった。 高校のときの剣道部の先輩が、 食事に誘ってくださった。 しかも、何でも食べていいという。 先輩は、一足先に高校を卒業して働いていたとはいえ、 まだ安月給に違いなく、当時としては大変だったと思う。 そんなことよりも、理由がわからなかった。 先輩とは、同じ部だったが、ほとんど接点はなかった。 先輩も私には、あまり関心がなかったのは事実だった。 なのに、その日は、 ほんとうに気持ちよく奢ってくださった。 ひとしきり楽しく食事をしたころ、先輩が、 「お守りは、二つでなくてはいけなかった……」 と切り出した。 私は、一瞬「えっ?」と思い、「ああ!」と謎がとけた。 先輩は、受験のときの一件を私にあやまりたかったのだ、 これは、おわびの時間なのだ、とわかった。 大学受験をひかえていたある日、 先輩から、厚めの封書が届いた。 その中には、合格祈願のお守りが一つと、 それを、私の友だちのKちゃんに渡してくれという 手紙が入っていた。 先輩は、私の友だちのKちゃんが好きだったのだ、 とそのときわかった。 私は、お守りをKちゃんに渡した。 Kちゃんと私は、 同じ剣道部で、同じ大学に行った。 それで、先輩は、そのときからずっと半年近くも、 私に悪いことをしたと思いつづけていたのだ。 「お守りを二つ、なぜ、用意しなかった」と。 同じ後輩であり、同じ大学を受験する私に、 思いやりのない行為だったと。 それからずっと、 おわびの機会を考えてくださっていたのだ。 武道の精神を重んじる先輩らしい、けじめだ。 「ではこの前のコンサートも?」 と私は心の中で思った。 数日前、私とKちゃんは、二人でコンサートに行った。 Kちゃんあてに、先輩から、券が2まい余っている、 私と行ってくれないかと、唐突に連絡があったそうなのだ。 先輩は、お守りの一件以降、 Kちゃんに告白することもなく、 それっきり、2人は交流もしなかった。 券が余ったというのは、おそらく嘘で、 先輩は、今度は、Kちゃん経由で、 私に、コンサートの楽しい時間をくださったのではないか と推測した。今度は2まい、券は2まいで。 あれから、先輩には会っていない。 でも、二十数年経っても、このときのことを思い出すと、 心が温かくなる。 お守りの一件は、それがなければ 忘れてしまうくらいのことだった。 でも、先輩から封書を受け取って、 「なんだろう、なんだろう」 と空けるまでの気持ちと、 「なんだ、ちぇっ、自分で渡せばいいのに」 と思うまでの間に、 18の心には、一瞬の翳りがあった。 傷ついたというような大げさなものではない。 でも、もしかすると、 潜在意識の中に小さなシミとして沈んで、 受験とか、お守りとか、部活とか、思い出すときの 感じ方に、微妙に影響したかもしれない。 18の想い出を泣かすな、 と先輩が思ったかどうかは知らない。 でも、先輩のおかげで、 これらは、晴れやかな、温かい記憶として、 20年以上経ついまも残っている。 物質的なことよりも、半年もの長きにわたって、 自分の気持ちを 大事に考えて続けていてくれた人がいたこと、 大事にされたことが、私の中に残った。 「とりかえしがつかない」と私たちはよく言う。 確かに、傷つけてしまったこと、そのこと自体は、 つぐないようがない。時は二度と元には戻れない。 でも、相手に与えてしまったダメージと等価の、 嬉しい気持ち、嬉しい時間は、 提供することができるのだと思う。 それには、「遅すぎる」ということはない。 むしろ、それだけの時間、相手を思ったことの証になる。 許す、許さないとか、自分が許せないとかはまた別問題だ。 相手のモチベーションを下げたなら、上がるような時間を、 相手の気持ちを冷やしたなら、温かくなるような記憶を。 それを提供するのが、おわびの時間だ。 少なくとも、そこまではやろうと、私は思う。 『あなたの話はなぜ「通じない」のか』 筑摩書房1400円 『伝わる・揺さぶる!文章を書く』 山田ズーニー著 PHP新書660円 内容紹介(PHP新書リードより) お願い、お詫び、議事録、志望理由など、 私たちは日々、文章を書いている。 どんな小さなメモにも、 読み手がいて、目指す結果がある。 どうしたら誤解されずに想いを伝え、 読み手の気持ちを動かすことができるのだろう? 自分の頭で考え、他者と関わることの 痛みと歓びを問いかける、心を揺さぶる表現の技術。 (書き下ろし236ページ) |
山田ズーニーさんへの激励や感想などは、
メールの表題に「山田ズーニーさんへ」と書いて、
postman@1101.comに送ってください。
2005-01-19-WED
戻る |