Lesson254 話をしていておもしろい人
話をしていて、おもしろい人と、
なんだか、つまらない人、
いったい何がちがうのだろうか?
私が、いま、話していて、おもしろい、
と感じる人には、共通点がある。
たとえば、私が、Aという問題について、
「どう思う?」と投げかけてみると、
私が、いま話していて、おもしろいと感じる人たちからは、
すぐにポン!と直線的な答えが
返ってくるわけではない。
私の投げかけをじっと受けとめて、
言葉を発するまでに、
独特の「間」がある。
この「間(ま)」、
会話にふっと訪れる静けさが私は好きだ。
気持ちを新たにしながら、
つつしんで、いったいどんな言葉が返ってくるのかを待つ。
どきどきもする。
しばしの沈黙ののち、
最初に発せられることばは、
一見、私の投げかけと距離のあるような、
意外な言葉だ。
これが一段階。
そこから、二段階、三段階…、
場合によっては、四段階と、言葉を重ねるようにして、
しだいに、ググッ、ググッ、と、話が核心に近づいていく。
そのようにして、最終的に私に届けられたメッセージは、
胸にじーんと染みて、
わたしは、しばらく返事をするのも忘れ、
その、返された言葉の感慨にひたっていることがある。
一方、話をしていて、
なぜかつまらないと私が感じる人の共通点は、
1つはっきりある。
「予定調和」だ。
もちろん会話は二人で分担するものだから、
相手に予定調和な会話をさせている責任の半分は
わたしにある。それを認めたうえで、
そういう予定調和の人は、返答のスピードがはやい。
すぐ、はずれていない言葉を返してくださる。
ためにもなる。
日ごろよく勉強をされていることが感じられるし、
頭の回転もはやそう。
ふいの沈黙もなく、よどみなく、
ポンポン、安心して会話がつづけられる。
でも、それは、「心がやすまる」というのとは、
どこかちがう。
人が、からだの、
どれくらいの深さから言葉を発しているか?
というと、この予定調和な感じがする人は、
胸の上のあたりに、
「返答用のファイルボックス」がある感じだ。
日ごろから、仕事のシーンや、世間話や、
会話にこまらないように、
ネタや情報、処世術など、
勉強して、集めて、ストックしている。
どうも、その、胸の上あたりのファイルボックスから、
ネタを出し入れしながら、しゃべっている感じがする。
「Aについて、どう思いますか?」と問うと、
「一般的に、こういう場では、
どのような返答を返すことがいいのだろうか?」
という、検索軸が立つ。
ファイルボックスから、適切な答えをもってきて返す。
それは、はずれてない。
はずれてないんだけど、どっかで聞いたような気がする。
ためにはなるんだけど、胸に染みいるものではない。
一方、私がいま、話しておもしろいと感じる人たちが、
言葉を発するまでに、しばし、黙る。
この沈黙のあいだ、
彼らは、ダイビングしているように思う。
声を発するのどがあって、胸に降りて、
食道も通って、胃があって、腹があって、
腹の底の、もっと人として深い部分に、
その人が、いままで生きてきた、深い深い、
「経験の湖」がある。
そこには、その人の経験の中での
たくさんの「想い」「記憶」が、
まだ、言葉を与えられないまま、混沌と浮かんでいる。
「Aについて、どう思いますか?」と私が問うと、
彼らは、沈黙の間に、
迷いなく、まっすぐ、この「経験の湖」に降りていって、
この膨大な湖の中に、いま、私から聞かれたものに
こつんと触るものがないか、探す。つかむ。
しかし、それは、まだ、言葉を与えられていない。
この深い経験の湖から、腹、胸、のど、と水をくみあげ、
最終的に言葉にしていく、
「ポンプ」のようなものがある。
これが、「考える筋肉」だと私はおもう。
有効な「問い」と言いかえてもいい。
第1ポンプで、
Aという問題と重なる、まだ言葉にならない
自分の経験・想い・記憶をくみあげ、
第2ポンプで、
その状況をあざやかな言葉にして、くみ上げ、
第3ポンプで、その意味を考え、くみ上げ、
第4ポンプで、核心のキーワードを浮上させる。
そのようにして、出てくる言葉は、
私の投げかけに応じて、たったいま、このためだけに、
つくられ、生まれ出たメッセージだ。
たきたてのごはんのような、
いわば、オーダーメイドの言葉なのだ。
ファイルボックスから出される、既製品の言葉と、
おもしろさに差を感じるのも無理はない。
話ベタである、
ということにコンプレックスを感じる人は多い。
わたしも、自分が「つまんない」とへこむときが多い。
でも、話ベタな人が、
「不勉強なもので」とか、
「無教養だから」という方向に、
逃げをつくってしまうことが、
私には、残念でならない。
たしかに、教養がたくさんあることは素晴らしい。
よく勉強をして話題やネタが豊富な人を、
わたしも好きだ。そこは否定しない。
でも、そうして、ネタを仕込み、勉強をして
ファイルをいつも、ぱんぱんにしておかないと、
私たちは、おもしろい話ができないのだろうか?
人がもっている経験や、その中から生まれた
さまざまな想い、感覚は、当人からみれば、ふつうで、
なんのおもしろいことではないかもしれない。
でも、自分とはちがう他人から観れば、
自分でおもうより、
よっぽど新鮮で、かけがえないかもしれない。
出して、みなければ、それは、わからない。
「考える力」があれば、
ファイルは、スカスカでも、
いままで生きてきた自分の湖に何度でも潜りながら、
その場で、「考えて」、
「考えて」、あたらしく言葉を、生み出すことはできる。
相手に投げ返すことができる。
話しておもしろい人と、おもしろくないと感じる人の差は、
この「考える筋肉」を、常に常につかって鍛えて、
自分の中から新しいメッセージを浮上させられる人と、
せっかくあるポンプを鍛えておらず、
トレーニング方法も知らされず、
萎えさせている人の差ではないだろうか。
せっかくある筋肉がつかわれていない。
本来、できることを、やれていないという状態を、
わたしは、はっきりと、「不自由」だと思う。
ファイルボックスに仕込んだ、既製品の言葉で
やりくりしている人は、
会話は淀みなくすすんでも、
経験の湖にある、想いは、
自分の中で淀んだまま、解放されないままだ。
自分と、表現が一致しないのは苦しい。
表現とは、自分の外に表れ出た、人から観えるものすべて、
肉体も、着るものの、化粧も、たたずまいも、言葉も。
こどものころ、自分の内面はこうなのに、
それと全然違う髪型に切られてしまったときの
くやし泣きをいまも思い出す。
あれは、こども心に、「表現と自分の不一致」のつらさだ。
常に常に、自分の湖をくみ上げるポンプ、
つまり、考える筋肉を鍛え、その連携をよくしている人は、
しだいに、自分の想いと、ピタッと言葉が一致してきて、
自由だ。その解放感は、人をも、すがすがしくさせる。
表現とその人の一致、
そのための、「考える力」、それがある人を、
私は、心底、自由で、話のおもしろい人だと思う。
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『考えるシート』講談社1300円
『あなたの話はなぜ「通じない」のか』
筑摩書房1400円
『伝わる・揺さぶる!文章を書く』
山田ズーニー著 PHP新書660円
内容紹介(PHP新書リードより)
お願い、お詫び、議事録、志望理由など、
私たちは日々、文章を書いている。
どんな小さなメモにも、
読み手がいて、目指す結果がある。
どうしたら誤解されずに想いを伝え、
読み手の気持ちを動かすことができるのだろう?
自分の頭で考え、他者と関わることの
痛みと歓びを問いかける、心を揺さぶる表現の技術。
(書き下ろし236ページ) |