YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson280  待つ力


私が会社を辞めて、
ふたたび社会にどうエントリーしていいか、
迷っていたころの姿は、

見る人によっては、
ただ、だらだら、くよくよしているように映り、
ずいぶん、はがゆかったろうな、と思う。

「とにかく行動しろ!」とか、
「とにかく人に会え!」とか、
「どんなことでも興味をもて!」とか、

実際そんなようなことを言われたこともあった。

でも、いまになっておもう。

<とにかく>人に会ったり、
<どんなことでも>興味をもとうと心をしむけたり、
<なんでもいいから>やってみたり、
しなかったからこそ、

つまり、あれやこれやと
やみくもに手を出すということをしなかったからこそ、

消耗を防ぎ、
いま、自分はより納得感のある形で、
社会参加ができているのだと思う。

あのころのことを思うと、アパートの天井が浮かぶ。

それは、昼でなく
かといって、まだ夕方とも呼べず、
中途半端な、ほうりだされたような時刻で、

ふて寝から目覚めて、しかたなく
私は、よく、天井を見た。

なんど見ても同じ木の天井の木目と、
まんなかにぶらさがっている
まんまるの白熱球のライトと、
ライトのすっきりした白い傘を
くる日もくる日も目で追った。

ライトの傘にほこりがたまっている、と同じことを思う。

また、天井の木目を追う。

「こんなことをしていちゃいけない」

自分なりに何かを求め、
一日一回は外にでるのだが、
たいていはからぶりで、消耗激しく、
しかたなく家にもどっては、ふて寝していた。

だらだらしていて気持ちがいいかというと
決してそんなことはない。
そんな自分を、まっさきに自分が責めた。

会社にいる間は、高密度に、高速に時間が流れた。

無意味な時間に身を置くだけで、
内側からひしがれそうになる。

じっと重圧に耐える。

耐え切れない。

そんなときは外を走った。

走りながら、
「自分はまだ走っていたいんだ」と強く願った。
まだ人生をリタイアするのでもなく、
まだ傍観者になるのでもなく、
ゆっくり歩くんでもなく、
まだ人生を走っていたい。

でも、思うようにレースに参加できない。

当時の自分をおもうと、
なんであんなに、外にいても、部屋にいても、
ただ「いる」だけで押しつぶされそうだったのかと思う。

いまは、例えば、3日ぐらい時間ができたとして、
ずっと部屋にいろと言われても、
ぜんぜん苦痛じゃない。
つぶされるような感じもない。
約5年をかけて、うまくはないが自分なりに
アイデンティティの組み換えみたいなことが
できていたんだろうと思う。

居場所がある人間には、
ない人間のことが想像できない。

あれが
アイデンティティを失うという感覚だったのだと思う。
天職とか、大好きな人とか、
自分の真ん中にあるものを失うという感覚。

でも私は、そこからのがれるために、
スケジュールの空白をうめる、ということをしなかった。

正直いうと、やろうとしてもできなかった。

空白の時間は、
ひたすら重圧に耐えて待つ、しかなかった。

そして、スケジュールに空白をつくったからこそ、
自分はふたたび社会に出てこられたんだと思う。

アイデンティティを失う、
やり直す、
というときに、
スケジュールにまったく空白をつくらず、
次に進める人がいる。

私と同じように会社を辞めても、
すぐさま会社を立ち上げたり。
勉強や、用事や、ならいごとで、
すきまなくスケジュールを埋めていったり。

それができるのはいいことだ。
そのほうが世間では賞賛される。

でも、わたしはできなかった。

心から興味がもてるもの、
次のアイデンティティの核になるほど
自分の心をとらえるほどのものなど、
人生の中で、そんなに何回も出逢えるものではない。

第一、以前、自分の心をとらえていたもの、
それに出逢うまでに、いったい何年かかった?

私が小論文に出会ったのは25歳のとき、
生まれてから25年、
社会に出てからでも3年はかかっている。
それが天職とおもえるまでに育ったのは、
社会に出て10年したときだ。

「出逢う」には、
自分の内側の準備と、外からの機会、
両方が必要で、
この両方がピタッとそろう、
「これだ!」と思える出逢いなど、
1年のうちに、そうそう何回もあるものではない。

私は、
「これだ!」というものを待っていたんだと思う。

別にビックチャンスとか、そういうことではない。
ほっといても自然に自分の「心が向く」ものを。

たしかに、つてをいろいろあたり、
とにかく人にあってもらえば、
そこで、自分ができる仕事を出してくれたり、

たとえそれが気が進まないものでも、
なんとか、そこに興味をもとうと心をしむけて、
とにかくやってみれば、
それなりにできるようになったり、

それはそれでスケジュールの空白は埋まり、
絶えず何かやってれば、
寂しさは感じなくてすむかもしれない。
でも何かで空白を埋めるということは、
そこにはもう、他の何かは入れられない、ということだ。

アイデンティティを失っている状態は、
人に会うにも、なにかするにも、
とにかく消耗が激しい。
「自分は何者か」、いちいちそこから揺らぐからだ。

1年のうちでも何回もない、「これだ!」
というものに出逢ったときに、

むやみな動きで消耗しきってくたくただったら?
スケジュールに余白がなかったら?
どうやってそこに飛び込んでいけるのだろうか?

私は、常に、外に対して切実にひらいていたけれども、
「心が向く」ことのないものへ、
やみくもな動きはしなかった。
そのことが、いま思えば、むやみな消耗を防いでいた。

十代のころではないのだ。
人生経験を積んで、あれこれと失敗もして、
酸いも甘いもかみ分けたおとなにとって、
自分の心をとらえるものなど、たくさんは、ない。

だから、心の声にしたがえば、
スケジュールに空白ができ、
空白の時間は、じっとパワーを溜め込んだ。

その状態は、見方を変えれば、
いつなんどき「これだ!」というものに遭遇しても、
「すぐに」、「全身全霊で」、飛び込める状態でもある。

事実、「これだ!」というものに出逢ったときに、
決してのがさない、即対応の自分がいた。
実際、はじめてのことをやるとなると、
想像以上にパワーがいったが、
なにしろパワーはありあまっていた。
そして、全身全霊で、担当者がびっくりするくらい
一生懸命仕事をする自分がいた。

その仕事が、人の印象に残り、
また次の機会をひらいてくれて、というふうにして、
私はゆっくりとふたたび社会にもどっていった。

ニートやフリーターが問題視されるいま、
私のような、心のペースにあわせた行き方は、
肩身が狭いと思う。

『三年寝太郎』の童話があってよかった。
ほんとうに心の支えだった。

「ものはひらいた手でしかつかめない」

いま、びっしり書き込んだスケジュール表を見て思う。

来年のスケジュールに、
出逢いを呼び寄せる空白はあるだろうか?
来年のスケジュールが、心の向くほうへ、
心のペースで、刻まれていきますように。


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<テレビ再放送のお知らせ>

12月28日 あさ 10:05−10:30
  1月4日 あさ 10:05−10:30
  1月5日 あさ 10:05−10:30
  1月6日 あさ 10:05−10:30
NHK総合テレビ『なるほど日本語塾』
「想いが通じるコミュニケーションレッスン」
*放送予定は突発的な事件などで
 変更になる場合があります。
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『考えるシート』講談社1300円


『あなたの話はなぜ「通じない」のか』
筑摩書房1400円




『伝わる・揺さぶる!文章を書く』
山田ズーニー著 PHP新書660円


内容紹介(PHP新書リードより)
お願い、お詫び、議事録、志望理由など、
私たちは日々、文章を書いている。
どんな小さなメモにも、
読み手がいて、目指す結果がある。
どうしたら誤解されずに想いを伝え、
読み手の気持ちを動かすことができるのだろう?
自分の頭で考え、他者と関わることの
痛みと歓びを問いかける、心を揺さぶる表現の技術。
(書き下ろし236ページ)

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2005-12-28-WED

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