おとなの小論文教室。 感じる・考える・伝わる! |
Lesson 298 ゼロの感覚 先日、ラジオに出たときに、 これからアジアで行きたいところは? と訪ねられて、 とんちんかんな答えをしてしまった。 どうも、いまの自分には、行きたい場所がないようだ。 どうしてかというと、 いま、自分は、自分の思い当たる範囲で、 世界でいちばん好きな場所に住んでいるからだ。 表参道にオフィスを持つことは、 ずっと昔からの夢だった。 こういうと、 あまりにおのぼりさんのようで恥ずかしいけど、 ほんとうのことだからしかたがない。 地方に住んでいたとき、 はじめて表参道にきて、衝撃を受けた。 そのときは、並木が、秋色に色づくころだったと思う。 私はたぶん、ここの、樹が好きなのだ。 いま、新緑の季節で、 ときおり強い風が吹くと、ざわざわざわざわぁ〜、と 深い緑が鳴り響く。 見慣れた街に、急に轟く自然の音に、 別世界に連れ去られるような感覚がする。 樹が深いことで、季節や温度や風や天気に、 敏感に、街の表情が変わっていく。 世界中の人が、買い物や観光でこの街にくる。 若いデザイナーや、美容師さんが、 がんばってこの街にお店を開こうとやってくる。 恋人たちは、休みになると、自由になる時間を使って、 おしゃれをして、「来よう」と思って、この街にくる。 都市の人にとってあたりまえの、そんな景色が、 過疎の町に生まれた私には、それだけで何か嬉しい。 私が生まれた街は、ずっと人口が減り続けている。 学校や職場を求めて都市に出ていく人もいるし、 出て行かなくても、都市にあこがれている人もいる。 幼いころから、そんなふうにして、 自分の住む町から、人や、人の気が離れていくことを、 どこかで敏感に感じ取っていて、 自分は、ずっと、潜在的に寂しかったのではないかと、 いまごろになって、ふとそんなことを思う。 だからよりによって、 世界中から人が集まる街に身をおいて、 バランスをとろうとしているのかもしれない。 しかしここは、最近できた表参道ヒルズから 徒歩数分の一等地だ。 正直、こんな土地の高いところに住む収入もなければ、 そんな高い家賃を払って、ここに住む必要もない。 あれこれ理由を並べたけれど、つきつめれば、 「好きだから」住んでいる。 これに勝る理由がない。 その「好きだから」、ただそれだけのために、 会社員時代に、コツコツコツコツとためた 貯金をつぎ込む決意をした。 表参道に何度か足を運ぶうち、 「ここだ!」と直感するようなエリアがあった。 そこに出物はなく、表参道の他の場所の物件を見ても、 ちっとも心が動かない、ばかりか、 そのエリアを想って、よけい寂しくなった。 どうしてもそのエリアでないとだめ、 惚れるような物件でなければだめ、 そうでなかったら、 もう、引越しはしないと心に決めたとき、 不動産屋さんから、 「予算をはるかにこえた物件だけど、」 と知らせがあった。 その物件の、 高さ5メートルのガラスの天井を見たときに、 「ここしかない」と思った。 あまりに予算オーバーの物件だったけど、 3年の予定を、2年に縮めれば、何とか住める。 もう、人生も折り返し地点、 一生に一度、たった2年だけでも、 ほんとうに惚れた街、惚れた部屋に住んでみよう。 いま、住まなければ、 表参道は一生絵に描いたモチになる。 契約のお金を払うときは、手が震えた。 人生の中で、 こんな思い切ったお金の使い方をしたことはない。 でも、そのときわかったのは、 自分は、高いか安いかに関係なく、 ほんとうにそこが好きなのだ、という想いだった。 あれから1年。 ほんとうに好きなところに、住んでみてどうか。 私は、人生の中でも数少ない、 ゼロの感覚をずっと味わっている。 ゼロ、という言葉がふさわしいかどうかわからないが、 とにかく、何かが、自分の中でつりあって、 それが、ずーーっと、つりあいっぱなし、という、 なかなか味わえない感覚なのだ。 これまで、生まれた町、育った家含めて、 いろいろに、 住むところを変えたし、変えなければならなかった。 それぞれに愛着はあったけれど、 でも、どっかで、「ここではないどこか」に、 もっと自分にぴったりしたところがあるんじゃないか、 という想いが、たびたびよぎった。 「ここではないどこか」が、入り込む余地は、 どこにいても、どこかしらに、あった。 それが、 ここに住むようになってから、まったくない、のだ。 よぎりもしない。 それどころか、 「ここ」こそ、その、「どこか」ではないか、 という想いが日々強くなっている。 小さなことで言えば、間取りから、 手すりや、空間のちょっとしたサイズまで、 この部屋には、不満がまったくない。 賃貸では、 どっかなにか不満があるものだがひとつもない。 この場所に住んでいると、妙に心が落ち着く。 人から見れば、おかしいだろうけど、 朝起きて、ここが好きだと想い。 出先から帰ってきては、ああ帰ってきた、 やっぱりここが好きだと想い。 部屋にいて、ふと、 ほんとに好きなところに住めて嬉しいなと いまさらのようにおもうことがある。 そこで、ふと、おもいついたたとえが、 男の人で、若いころプレイボーイだった人が、 さまざまな女の人とつきあって、 ついに、「これだ!」と想った女性に出逢ったとき、 それまでのプレイボーイぶりがうそのように、 まったく遊ばなくなってしまう、というのだった。 こんな感覚だろうか。 絵本の『100万回生きたねこ』の主人公の雄猫も、 心からほんとうに愛する雌猫に出逢って 「生きた」果てに、 もう、生まれ変わらなかった。 そこまでのことではないにしても、 心から好きなところに住む、 というのは、しあわせの雛形だとおもうし、 実際、しあわせなのだけど。 その好きなところの引力に吸い取られて、 どっかへ行きたいという気持ちが全然起こらないのだ。 しあわせの先には何がある? 案外なんにもないのかも。 ここへきて、ふとそんな気もしてきている。 しあわせ未満のときには、 満たされているようでも、どっか、すきっ腹だったり、 どっかが過剰に満たされすぎていたり、 自分の中で、バランスがとれず、 そこに動きが生まれ、 旅をしたり、人を求めたり、何かを探し求めて、 そうせずにはいられなくて、 外に向かって働きかけていく。 それも、たいそうおもしろいことではないか。 ここへきて、芯からそんな気がしている。 不幸の先には何がある? ドラマがある。 だから物語の多くは、 不幸や不足からはじまり、幸福で終わる。 しあわせを数であらわしたら、 人は100と言うかもしれない。 でも、いまの、私にしっくりするのは、ゼロ、だ。 自分が生きてきた道のりの中で、 欠乏や、不足があったからこそ、 旅して、つかんで、ようやく、 何かがピタッと、つりあった状態。 それが、いかに外に向かない、 動きのない状態であっても、 しばらくは、この感覚の中に身をうずめていたいと思う。 でも、私の場合、ゼロの感覚は長くは続かない。 いずれ、表参道を去る日が来る。 そのとき、また、つりあいから解かれ、 また、ドラマがはじまる。 そう考えると、それもいいな、と楽しみである。 ………………………………………………………………… 『理解という名の愛が欲しいーおとなの小論文教室。II』 河出書房新社 『おとなの小論文教室。』河出書房新社 『考えるシート』講談社1300円 『あなたの話はなぜ「通じない」のか』 筑摩書房1400円 『伝わる・揺さぶる!文章を書く』 山田ズーニー著 PHP新書660円 内容紹介(PHP新書リードより) お願い、お詫び、議事録、志望理由など、 私たちは日々、文章を書いている。 どんな小さなメモにも、 読み手がいて、目指す結果がある。 どうしたら誤解されずに想いを伝え、 読み手の気持ちを動かすことができるのだろう? 自分の頭で考え、他者と関わることの 痛みと歓びを問いかける、心を揺さぶる表現の技術。 (書き下ろし236ページ) |
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2006-05-03-WED
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