おとなの小論文教室。 感じる・考える・伝わる! |
Lesson352 相談にのって、なぜ叱られる? 友人の仕事の悩みを聞いていたときだ。 だまって、さんざん聞いたあと、 友人がひどく悩んでいるようなので、 「私の知ってる人は、似たような悩みを、 こんなふうに解決したよ」 と遠慮がちにヒントとも言えない話をした。 すると友人の顔がみるみる曇りはじめた。 それならもっと役立つ話をと、別のケースを話しだすと、 友人は途中でさえぎって、 「これは自分の仕事のことだから あなたに心配してもらうようなことではありませんよ」 ときっぱり拒否した。 私は「ええっーー?!」という感じだった。 じゃあ、今までの話はなんだったの? 私にはどうみても、友人が私に仕事の悩みを相談している としか思えなかった。 じゃあ、なんで私にそんな話したの? 心配してほしくないんなら、私にそんな話するなよー、 と私は内心むくれ、そして思った、 「相談にのって、なぜ叱られる?」 読者の相談の達人たちは言う。 うち1人は相談を仕事にしている「プロ」だ。 <相談され上手な私> 妙な話ですが、私は自他ともに認める 「相談され上手」です。 相談されるときのコツは、 1.相手の話をまずひととおり聞く 2.相手が「言ってほしそうなこと」を言う。 (同情するとか、励ますとか、共感するとか) 3.その上で、自分の意見もちょろっと伝える。 わたしが一番相手に伝えたいのは3ですが、 2を省いて3を伝えると、 人は耳を塞いでしまうときがあるのです。 いったん受け入れて、 こちらの土俵で話ができるようにするとでも いいましょうか。 3を言わずにすませることもあります。 このコツを使うと、相談してくる人の多くに ご満足いただけるのですが、 一方で、私は大変な「相談下手」です。 相談される人が相談されやすいように 話を組み立ててみると、あら不思議、 相談するべきことはあまり残っていないのです。 (読者 山田さん/40歳女性からのメール) <相手がどんな答えがほしいかを一緒に手探りしていく> 塾で高校生の進路相談をしていますが、 相談にくる高校生は、 大体において「どんな答えがほしいのか?」 ということを、よくわかっていないことが多いですよね。 だから、「どんな答えがほしいのか?」を探っていくと 相談、というのは、ほとんど、終わりに近づきます。 (読者 帰ってきた極楽王子さん) <プロとして注意していること> 私は相談援助業務を行なっています。 自分で自分の状況を判断し、 相談相手に何を求めるか はっきりと提示できるというのは、 クライアントとしてかなり力がある人です。 その時点で問題は、ほぼ解決に向かいます。 多くの方は不安や混乱の中にいて、 自分の状況を客観的に判断することができにくく 何を相談するかすら分かっていないことが多くあります。 私は職業として、 問題を明確化し、 今必要なことは何かを抽出し、 それに対してクライアントご自身がどのように 自己決定されていくか、 その過程を支援する技術が求められます。 私たちがご相談をお受けする上で注意することは、 表現された訴え(complaint) 悩み、困っていること、問題(trouble) 必要(不可欠)なこと(need) 要求(demand) を見極め、分類していくことです。 相談を受ける側が混乱してしまうのは、 多くの場合、 まず「訴え」のみに注目し、 それに振り回されてしまうこと、 「問題」の大きさや、状況に振り回されること、 「needとdemand」はとても見極めることが困難なこと。 などです。 (読者 めぐみさんからのメール) メールを読んでおもった。 単に「相談」にのることと 「問題解決」を手伝うこととは、 かなりちがうんではないか、ということだ。 それで、 (これ言うと、そうとう誤解というか 反発をうけそうだなあ‥‥、 でも、いいや、あえて) めぐみさんのようなプロのところにいく人は別として、 素人同士、相談ということを したりされたりしている人のうち、 かなり多くの人が、 実は「問題解決」なんて 求めていないのではないだろうか? これ、決して悪い意味で言っているのではない。 本気で「問題解決」したいなら、 カラダを直したければ医者にいくだろうし、 彼の気持ちが知りたいんなら、 彼に直接聞くか、第三者に頼んで聞くかだし。 本気で会社を移りたかったら、 会社情報を集めたり、面接を受けたりするだろうし。 けっこう多くの人が そんなこと言われなくてもわかっている。 「相談」なんかはしないのだ。 私は、どうもそこを理解しきれず、 相談にのるとき、無意識に 「なんとかしてあげよう」と思っているふしがある。 まず相手の現状はどうなっているのか(現状理解) いちばんの問題点はなにか(問題発見) 問題はなぜ起きたか(原因分析) どういう方向にもっていくのがいいか(解決の方向性) そのためにどうするか(具体策) こう考えるのは小論文のクセで、 相手がほんとうに問題解決を求めているなら役に立つ。 だけど、あなたのおかれた状況の、 この部分が諸悪の根源ですよ、と人から指摘され、 変革を迫られるようなことは、 どうもカラダにメスをいれられるような 自分がやられても抵抗感のあるやり方だ。 たいていの問題は複雑にからみあっていて、 ちょっとやそっとで、単純に解決しない。 いや、そもそもどうにもならないと 相談する本人も、わかって言っているふしがある。 それでもなぜ人は相談をするんだろうか? 現状を打破しようでもなく、 何かを変えようでも、解決しようでもなく、 なんとか自分の置かれた状況を受け入れよう、 自分をとりまく複雑な環境と折り合おうと、 もがいていることも多いんじゃないか。 動き出す人ばかりがもてはやされるが、 悩みつつそこにある人への尊重みたいなものが 相談を受ける側にいるんじゃないだろうか。 読者の花井さんは言う。 <大変だけど幸せな介護生活> 私は数年前まで、父の介護を5年ほどしておりました。 残念ながら、一昨年亡くなりましたが 精一杯介護をしたという想いが家族みんなにあり 今は大変だったけど幸せな時間だったと 振り返ることが出来ます。 介護のかの字もわからない時、どうしてよいのかわからず 1度知人に介護の“愚痴”を 思わず言ったことがあります。 その時、「間違った!」と痛感したんです。 私としては、“相談”ではなく“愚痴”のつもりで 聞き流してほしかった事を 知人は“相談”と受け取り、 「もっとこうしたら?」といった 自分なりの“意見”を言ってくれたんです。 今にして思えば、知人が私を気遣ってくれての 言葉だったんですが 余裕のなかった私と、 介護生活を推察で判断して語っている知人の提案が 逆に私を苦しめたのです。 それ以来、私は知人・会社の同僚に、 介護の話はしなくなりました。 何か病気のことで知りたければ病院に聞けばよいし 法律的なことは役所窓口に尋ねればよい、 と割り切って。 ヘタに知人に“相談→意見”をして、 それを信じてやってみて まったく検討違いな事だった‥‥となった時 「私は知人を恨んでしまうかもしれない」 そんな怖さを「間違えた!」と思った時、感じたのです。 それと「申し訳なさ」と「虚無感」のようなもの。 介護という特殊な生活は、 やはり経験をしていないと中々わからないものです。 「就職したことのない学生への就活相談」のように 言われた方も困るだろうなぁ〜という「申し訳なさ」と 言ったところで「芯からわかってもらえない」という 「虚無感」のようなもの。 子育て、というコミュニティ 介護、というコミュニティ 老後、というコミュニティ 等々 色々経験してみないとわからない世界がたくさんあって それはその道を歩んでいる人に尋ねるのが一番である、 というのは 介護のコミュニティ(ヘルパー、ケアマネージャー、 看護師、医師、同室入院者の家族との会話)で 改めてわかったことです。 頭では「たぶんそうだろうなー」とは思っていたんですが より強く、そう思うようになりました。 結果、情報を専門家や先人たちから得て、 自分たち家族で選び良い介護が出来たと思っています。 今、会社の同僚で、 同じように家族の介護という場面に直面した方が 今度は私を先人として、 相談したり愚痴ったりしに時々訪れます。 冷たいようですが、私には愚痴しか聞けないこと、 相談は専門家に任せた方が後悔しないこと、 お伝えしています。 (読者の花井さんからのメール) 言ったところで 「芯からわかってもらえない」という虚無感。 そういうものが自分の中にもある。 私は「孤独」と呼ぶとしっくりする。 人から見れば苦しそうだとか、 変えてあげたい、 解決してあげたいと思うかもしれないけど その中に身をおくと、けっこう歓びもあり、 悩みもひっくるめて自分の置かれた環境だ。 そして、コラムの冒頭で私に会社の悩みを打ち明けた 友人にもそういう虚無感があると、 どうしてあのとき、気づかなかったのだろう? 友人は会社の中でほんとうに孤独だった。 それは、私が会社に勤めたことがあるからとかで、 安易にわかるようなものではなかった。 それなのに推察で判断し、 安直なヒントをあたえようとした。 私が人に言っても 芯からわかってもらえないとおもう世界が、 あるように、友人の中にも そういうものがあることを忘れていた。 相談にのって叱られた理由はそれだったのかもしれない。 |
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2007-06-13-WED
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