YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson369 表現者のみかた 4


沢尻エリカさんの一連のマスコミ報道に、
ずっと違和感があった。

とくに違和感があった言葉が、
「エラそう」と「キャラづくり」。
どうもしっくりしない。

「自分こそが最もエライ」とほんとに思っている人間は
もっと余裕があるものだ。
彼女が最も苦しんでいるようにみえた。

舞台あいさつの、
彼女の表情には余裕なく、怯えすら嗅ぎ取れた。

彼女自身が、もっと大きな圧力に、
無言のうちにじりじり押しつぶされそうで、
牙をむき、吠え、必死に戦っているというか、

追いつめられる小動物のような「緊張」があった。

また「キャラづくり」というが、
それは、たとえば、ふだん心優しい女性が、
女子プロレスの悪役を演じるために、
カメラの前で、わざと「ぶっころすぞ」と汚い言葉をはき、
竹刀でアナウンサーを叩くような、
演出を言う言葉で、

演出だから、「ぶっころすぞ」というほうも、
「痛い〜」と悲鳴をあげるほうも、
どこかうっすら目が笑っている。
いい意味のつくられたもの、ウソだ。

ウソは人を動かさない、観るほうもすぐわかる、
だから安心して観ていられる。

舞台あいさつに場内が凍りついたのは、
それが演出でも、計算でも、虚飾でもない、
「ほんとう」だったからだ。

ああするしかできなかった
ああせずにはいられなかった

切実な表現と私には思えた。

21歳の経験、感覚、知力、キャパシティ、
おかれた状況、そのときの限界として、
彼女は、ああするより他できなかったのではないか。

せっぱつまった、ぎりぎりの、
エマージェンシーコールように
私には感じられた。

「緊張」というのは、自分の内面と、
自分の外の状況に大きなギャップがあるときに生じる
ということを聞いた。

たぶん、彼女が心の内面でおもう、
「これがいい、美しい、こうあってほしい」
と願う世界と、
彼女が置かれた外の状況にギャップがあるとき、
「それはおかしい、ちがう、いやだ」
という気持ちが彼女の中にたまっていく。

今回も、何か決定的なことがあったのか、
彼女の置かれた状況の中にストレスをためこむ回路が
できてしまっていて、少しずつたまっていったのかは
わからないけれど、

「それはおかしい、ちがう、いやだ」
というものが、
飲み込める限度を超えて大きくなって
しまったのではないか。

飲み込めないわだかまりを抱えてしまったとき、
人は、どうするんだろうか?

自分の内面と外の状況のギャップとは、
一般人なら例えば、
「母親にわかってほしいとおもっているのに、
母親がわかってくれない」など、
それだけでも、とってもつらいものだ。
自分の心と、外にいるたった1人の人間の間に緊張がある、
それだけでも、ひどくつらい。

だけど、エリカさんの場合、相対しているものが、
いちいち巨大というか、
マスコミだったり、その向こうにいる大衆だったり、
芸能界だったり、
自分の心と外のギャップといっても巨大で、
そこにたくさんのスタッフがかかわってくるし、
お金もたくさん動くし、
張り裂けの度合いも、緊張の度合いも、並大抵ではない。

今回の騒動で、
「彼女は自分を支えてくれるスタッフのことを考えない」
「何でも言いたいことを言う」
ように見えたかもしれないけれど、
むしろ逆、ではないかと思う。

まわりの気持ちがわからない、
何でもポンポン言える人間に、
ストレスはたまらないのだ。

12歳から芸能界でもまれ、
まわりの人間の機微に繊細で、
周囲の状況が読めるからこそ、
たまっていくものがある。

飲み込めないわだかまりを抱えてしまったとき、
人は、どうするか?

偽ったり、ごまかしたり、逃げたりもするんだろう。
あの舞台あいさつも、
つくり笑顔でやりすごす、お茶を濁す、
体調不良を理由にして逃げるなど、
いろんな選択肢があったはずだ。

でも、自分を偽ったり、ごまかしたりできない人は、
自分の気持ちと正直にむきあってもがく。

純粋。

私の場合は、自分ではかかえきれないものを
母にあたる、という最悪のカタチで発散してしまった。
その自分の弱さは、このコラムのバックナンバー
「連鎖」に書いている。

家族にあたったり、
カメラのまわっていないところでスタッフにあたったり、
かげにかくれて、陰湿に、より弱いものに、
発散する人は、たくさんいると思う。

カメラのまわっていないところで悪態をつくよりも、
カメラのまわっているところでやるのは、
はるかにハードルが高い。

彼女は、カメラの前で清楚な少女を演じ、
影にかくれて、陰湿な発散をするというやり方を
好まなかった。
カメラの前でどうどうとやった。

表も裏もない
きれいな人だとおもう。

偽りやごまかしや、裏表を好まない人が、
純粋に、自分のかかえる矛盾とむきあったとき、
過激なメイクやファッションになったり、
音楽になったり、
それが表現になってあらわれて、
私たちの目を楽しませてくれていた。

女優さんというのは、自己表現というより、
監督の思う世界観や、役を演じなければならないから、
彼女は、服装や、音楽や、言葉を通して
自己を表現し、自分の内面と外の世界をつなぎ、
それが観る人にも力を与えていた。

しかし、今回は、かかえきれないものがあり、
彼女の容量を超えた、のではなかったか。

言葉化されなかった想いはなくならない。
いつか何か全然別のカタチになって外にでてしまう。

押さえ込んで、ゆがんでしまう前に、
大勢の前で、ストレートに外に出たことは、
私はよかったと思う。

彼女は自立しているし、リスクもとれるし、
実際、責任を負っているし、これから挽回もできるし。
だいじょうぶだから。

彼女に、道徳や常識や、いろいろ教え込んで
押さえつけようとしたら、逆効果だと思う。

想いを外に出すことが必要だと思う。

そもそもの原因となった、わだかまっていたものを、
自分の中から引き出して、
言葉にして、整理していく作業。
いつのタイミングでやっていったらいいのか、
どのくらい時間がかかるのか、
どんな方法がいいのかわからないけれど、
すこしづつ、もつれた糸をほぐすように
想いをひとつ、またひとつ、と言葉にして、
外に出すこと。

それから、やっぱり、話し合うことだと思う。
あの舞台あいさつで、言いたくても言えなかった想いを、
必要な人と、充分に、想いと想いでぶつかりあい、
話し合うことだと思う。
話し合い、通じ合うのはほんとうに、
根気のいることだけど、
理解されたときの歓びは格別だ。

私は、表現する人のみかただ。

自分の内にあるものを表現して、
跳ね返ってくるものの痛さや素晴らしさで、
自己を形成し、
人とつながって、
前に進んでいく人が好きだ。

多様な表現、多様な失敗が許される社会であってほしい。

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2007-10-10-WED
YAMADA
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