おとなの小論文教室。 感じる・考える・伝わる! |
Lesson389 言わないという嘘 「まわりが心配するといけないから」と、 自分の心身に起こった一大事を言わないでおく。 これは、いいことなんだろうか? 私も自分のことはあまり言わないほうだ。 年明けに、祖母が亡くなったときもそうだった。 急を告げられ、飛行機、車を乗り継いで ふるさとに戻ると、 母が心労と身労で重い風邪を引いていた。 私は断りきれない仕事を持ち帰り、 徹夜でしあげて、 翌日の葬儀にでると、 102歳の祖母の死に顔が、あまりにちっちゃく、 白く、かわいらしく、無垢だった。 天寿をまっとうした人の死体というのは、 なんとやすらかで、きよらかなのか、 祖母は5人の子、9人の孫、14人のひ孫、4人の玄孫、 りっぱに子孫を産みあげた。 祖父が死んでからの36年間、 ふたたび独りにもどった祖母は、 野菜と花づくりを趣味とし、市場へもっていき、 生計をたてた。 電池で言えば、レイコンマ1滴の残留電池もない、 最後の最後の1滴まで命を使いきり、まるで悔いがない。 祖母の死体は、天にものぼるやすらかさだった。 葬式のふるさとは、みぞれまじりの雪、 寒い、さむい、今年の中でいちばん寒い、雪の風景だった。 その葬儀のなかで、 ボクサーで言えば、 セコンドから何回もタオルを投げられながら、 おかんが高熱でも葬儀が済むまではと戦っていた。 後日談だが、母は最終ラウンドまで戦いぬいて入院した。 肺炎だった。 後ろ髪ひく、たくさんの風景をふりきって、飛行機に乗り、 雪のふるさとから、渋谷の喧騒へ、 もどってみると、いつもの仕事仲間Aさんの顔があった。 その日私は、仕事仲間に、 ひと言も祖母のことを言わなかった。 たぶん、ふたつの心理が働いた。 ひとつは、「相手のために言わないでおこう」という想い。 言えば、相手は気遣いするだろう。 葬式の話をしたら暗くなる。 それに仕事には関係ない、私的なことだ。 もうひとつは、 「どう言えばいいのかわからない」感じ、だ。 雪のふるさとと渋谷は、 国がちがうか、時代がちがうか、 というほどギャップがあった。 たしかに、いついつ祖母が亡くなりました という事実は報告できる。 でも、それで何が伝わるというのだろう。 赤ちゃんのようにあどけない祖母の死に顔や、 地縁、血縁というマウンドで戦う母のことや、 短い間に、あまりにもいろんなことがありすぎて、 どう言っても伝わらないような気がした。 「私が言わなければ世界はなにも変わりない。」 人一人死んだというのに、 外の世界はなにひとつ変わらず、 私は、まんまと、なにひとつ相手に気づかれないまま、 いつもと同じにミーティングは終わった。 その日、ミーティングで話したことが記憶にない。 胸中あまりに複雑で、言葉は素通りしていた。 ただひとつ、妙に印象に残っていることがある。 仕事仲間のAさんと、ミーティング場所まで歩いたとき、 妙に歩調があわなかったことだ。 並んで歩く息があわない、とでもいおうか。 Aさんとは取材や、打ち合わせ場所の移動など、 何度か歩いたが、そのときほど ちぐはぐに感じたことはない。 Aさんは何か会社でいやなことでもあったのかなあ、 と思っていた。 それからずいぶんたった、ある日。 ささいなことで、Aさんにかみつく自分がいた。 ずっとまえにAさんは、ご家族が入院されたことがあり、 あまりにも深刻だったので、仕事の席と知りつつも、 おさえきれずに、そのことを私に 話してくれたことがあった。 私も、家族が入退院を繰り返していた時期があり、 気持ちがよくわかるので、他人事とはおもえずに聞いた。 なぜかそのときの話になり、私がAさんに、 「ご家族のことを相談されたときは心配したが、 よくなってよかった」というようなことを言ったら、 Aさんが「いや相談はしてない」と言い、 私は、「そんな恩知らずなことを言うか?」みたいに、 かっ、と反応した。 Aさんの名誉のために言っておくが、 Aさんは、決して感謝知らずで言ったのではない。 公的な場で、仕事相手に 私的な相談をもちかけるということを、 よしとしない美学の持ち主で、日ごろからつつしんでいた。 だから、そのときも「どうこうしてくれ」と 相談をもちかけたのではなく、 ただ自分の状況を言わずにおられなかった、 ということを、ことわっておきたかっただけなのだ。 おかしいのだ。 私も、そのことを、頭ではとてもよく理解しているのに、 むしょうに腹がたっていた。 どうして自分はAさんにかみついたのか? それから一晩たっても、二晩たっても、 考えれば考えるほど、Aさんに落ち度はなく、 私が怒る筋あいもない。なのに腹のあたりがぐるぐるする。 だれかに、むしょうに腹が立つとき、 その人が「うらやましい」、 もっと言えば「ねたみ」であることが多い、 というのが私の経験則だ。 たとえば、おなかがすいて死にそうなときに、 自分の目の前で、自分の大好きなものをおいしそうに 食べている人がいたら、 それだけで「こんちくしょう!」と思うだろう。 私は、Aさんがうらやましいのか? だとしたら、なぜ? 私は、いつのまに心にすきっぱらを抱えたのだろうか? いろいろ順調だとおもっていた自分には 心あたりがなく、三晩がすぎようとしたとき、 「じゃあ、どうすれば自分は満足か?」 と考えて、はっ、と本心が見えた。 「私もAさんに祖母のことを聞いてほしい」 あまりにも意外な本心だった。 祖母の葬儀以降、Aさんとは仕事で何度か会った。 言って言えない間柄ではなかったが、 ほかのだれでもない自分の意志で、 「話すまい」と決めていた。 それで別段不自由も感じていなかったので、 出てきたこの幼稚な答えを自分でも疑った。 でも、わかった瞬間、心の苛立ちが、ぴたっ、と静まり、 霧が晴れるように自分の置かれた状況が澄んで見えてきた。 本心がはっきりするとはこういうことか、 と自分でも驚いた。 嘘は、自分の内実と違う情報を外に伝えることだ。 ならば、積極的に事実とちがうことを 「言う嘘」だけでなく、 「言わないという嘘」もある。 自分の心身や状況に、大きな変化が起こっているのに、 「何も言わない」「いつもと同じふりをする」 ということも、自分の内と外が違う。消極的な嘘だ。 「言わないという嘘」については、罪の意識もなく、 いいとおもってやることも多い。 でも、嘘は「自分の内面」と「外の世界」をきしませる。 例えば、ここに、 「あばら骨に小さなひびが入った男」と、 「きょうが誕生日の女」がいるとする。 どちらも会社に行って、 「取るに足らない自分のことだ。 みんなに気をつかわせてはいけない、言わないでおこう」 と決め込んだとする。 「私が言わなければ世界はなにも変わりない。」 自分さえ、それを言わなければ、 まわりは何ひとつ変わらず、 いつもと同じように会社の時間は終わる、だろうか? 実際そうでもないのではないだろうか? 例えばその日に限って、男性社員が出払っており、 「あばら骨に小さなひびが入った男」は、 何かといえば、荷物運びなどの力仕事を頼まれる。 1件、2件は、痛みをこらえ、平静をよそおって 荷物を運んでも、そのうちに違和感がつのってくる。 「自分は骨にひびがはいっているというのに、 どうして今日に限って俺にばかり力仕事をたのむんだ!」 5件、6件……と重なり、やがて、重い荷物を運べ といわれたときには、 周囲をうらむような気持ちにもなりかねない。 「自分は骨にひびがはいっているというのに、 知らないとはいえなんてひどい同僚たちだ、 自分で運べ!」 「きょうが誕生日の女」は、 その日に限って、後輩から相談ごとをもちこまれる。 それが1人だけでなく、2人、3人と重なると、 そのうちに心の中でこう思う。 「きょうは誕生日なのに…。 なんで朝から、こんなどろどろした愚痴ばかり 聞かされなきゃいけないの!」 あげく上司から残業を頼まれる。 上司の態度にむかっとくる。 「人に残業を頼むのに、すまない、の一言もないの! きょうは誕生日なのに‥‥。 早く帰りたかったのに‥‥。」 嘘は、自分の内と外にきしみを生む。 最初は小さな違和感でも それが降り積もれば緊張が生じ、 外の世界にたいして、自分でも気づかないうちに うらみを抱えこむ、ということにもなりかねない。 「自分が言わなければ世界はなにも変わりない。」 のだろうか? ほんとにそうか? そうではなく、いま私はこう思うのだ。 「自分が言わなければ世界は 次第によそよそしいものになる。」 あの仕事仲間のAさんと歩調が合わなかったとき、 Aさんに問題があったのではない、 問題を抱えていたのは自分だった。 Aさんはいつもと同じように歩いていた。 私は、短い期間に東京→ふるさと→東京、と とんぼがえりし、 身内の死、母の病気といろいろなことがあって胸中複雑で、 それは、いつもと歩調までちがってくるほどだった。 でもそれを自覚せず、 平静をよそおえると思い、 その実、知らずに世界をこういう目で見ていた。 「おばあちゃんが死んだというのに‥‥」 私は、言わないという嘘をついて、 でも心のどこかでいたわりを求め、 知らぬ間に、まわりへの違和感や、 肩すかしのような寂しさをつのらせていた。 合わなかった歩調は、自分の内と外のきしみだ。 でも、それはまわりがよそよそしいのではない。 自分がそれを伝えなかったからだ。 「あばら骨に小さなひびが入った男」は、 それを、伝えていれば、 荷物運びをたのまれることはなかった。 逆に、同僚のいたわりという 思わぬファインプレーを見たかもしれない。 「きょうが誕生日の女」は、 みんなに言えないまでも、だれか一人に打ちあけていれば、 その人が気を利かし、周囲の状況は変わったかもしれない。 いや、状況は何ひとつ変わらなかったかもしれない。 それでも後輩は愚痴をもちかけ、 上司は残業を頼んだかもしれない。 でもそのときこういうだろう。 「せっかくの誕生日なのに、ごめんなさい」と。 そのひとことで、自分の内と外の緊張はやわらぐ。 私も、もっとはやくに、小さく、さりげなく、 でも、きちんと伝えていれば、 外の歩幅は哀しみに寄り添い、 外はもっと優しい風景になったのではないかと思う。 相手を思いやって、 あるいは、自分のことなどとるにたらぬことだからと、 あるいは、たんに億劫で、 私たちは「言わないという嘘」をつく。 でも、嘘は自分の内と外の世界に亀裂を生む。 その亀裂を最後まで抱えきれるほど 私たちは強くないのではないだろうか。 |
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2008-03-12-WED
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