YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson391
 自信はどこからくるか?


私には、一時期、
不安で、不安で、いてもたってもいられない
ような時期があった。

30代の働き盛り、
仕事も波に乗っていたとき会社を辞め、
フリーランスになろうとしたのだが、

なかなかひとりだちできず、
明日のまったく見えない時期が3年、
なんやかやで仕事が軌道にのるまで5年はかかったと思う。

働きたいのに、働けない日々。

焦りと不安を鎮めようと、
あれこれやったなかで、ひとつ、
「これは効果があったな」というものがある。

気に入りの曲を集めたMDをつくることだ。

なんだそんなことか、と思われるかもしれない。
でも、ほんとに効果があった。

ただ、ただ、自分の人生をふりかえって、
自分がほんとうに聴きたい、好きな曲だけを、
ほんとうに好きな順番で編集していく。

もっともキツかった最初の2年間に、
3まいのMDをつくり、すりきれるほど聴いた。

はずかしいが、それぞれタイトルもつけた。
『成城の生活』
『かつて…』
『Two years have passed』

3まい目の『Two years have passed』を
つくるころには、
その名のとおり「2年たったかあ!」という感じで、
あかるい選曲になっていったが、
全体に暗めの曲もおおく、
とくに、2まい目の『かつて…』は、せつなくて、
今では気合いをいれないと聴けないくらいだが、

そんな曲たちでも聴いているとなぜか落ち着いた。

「明日どうするんだ?」「自分は何者だ?」
とつい自問したくなる、不安な日々も、

好きな曲にじっくり耳を傾けていると、しだいに、
これが自分だ。
自分は自分だ。
だいじょうぶ。と、

「内なる自信」がわいてくる。

自信はどこからくるか?

外から与えられるものではない。
ましてや人からもらうものでもない。

自分の内なるものに気づくことからくる。

私はこのところ、つくづくそう思うのだ。
つい最近、
「自分の本心に、自分でも驚くほどはっきり気づく」
という体験をした。

そのすっきり感は、ものすごいものがあった。

あまりにすっきりしたので、その気づきを
このコラムの
「Lesson389 言わないという嘘」にも
書かずにはおられなかった。

仕事柄、考えるくせがついているので、
小さな気づきはちょくちょくある。

でも、それは、自分の中の「氷山」にたとえると、
まだまだ浅いところにある、
「梅干し」大くらいの想いに気づいていたにすぎない。

ときたま、もっと深いところにある、
「りんご」くらいの大きさの、自分の想いに気づいて、
言葉にして外へ出す=出産する、
こともあるが、それも、めったにないことだ。

でも、今度の出産は、自分の氷山の底の底、
もっとも深い、根幹部分に横たわっている、
「すいか」ぐらいの本心。
しかも、自分ではまったく気づいていない「本心」だった。

それに気づけて、言葉にして外へ出せた。

その瞬間、とてもすっきりした
だけでなく、自分の置かれた状況が澄んで見えてきて、
心に、ぴたっと「凪」がおとずれ、
そして、
内から自信のようなものがわいてきた。

でも、どうしてだろう。

自分の心の根っこに、
それだけ大きく横たわっていて、
ときおり地震を起こすようにあばれ、
でも自分では気づいてないから
どうしようもなかった本心を、
言葉にして外へ出せたら、
「それは、スッキリと気持ちがよいだろう」
ということは、わかる。

でも本心に気づくことが、
なんで自信につながるんだろう?

私は、心理学者でないから、
そのメカニズムをうまく説明しきれないのだけど、
逆を考えるとよくわかる、というか、

自分でも自分の本心に気づいてない状態
というのは、心と言動がズレていく。

想いとはうらはらなことを言ったり、したり、
するので、自分に対する違和感がある。

自分に対する違和感を、
潜在的にずーっと抱えたような状態で、
文字通りの「自信」、つまり
「自分を信じる」ことなどできるだろうか?

心の根っこの本心が、
「コイツは自分に気づいてくれないな」
「わかってくれないな」
「自分が思うようにはちっとも行動してくれないだろうな」
と不信をつのらせているような状態では、
自信も育ちようがないのである。

自分でも、驚くような自分の本心に気づいたあと、
自分の中には、ささやかでも増えも減りもしない
「内なる自信」が芽生えていた。

どんな自信かというと‥‥。

そのあと私は、「こういう気づきこそ伝えなければ」と、
Aさんに手紙を書いた。
「Lesson389 言わないという嘘」を
読んでいない人のために
カンタンに説明すると。

私は、身辺に一大事が起こったとき、
それをあんまり人に言わない。
相手にめいわくをかけたくない、というのもあるけれど、
「自分は強い、人の手なんか借りない」幻想が
あったようだ。

その実、自分は弱いので、
自分でも気づかないで、人の優しさを求めていた。

それで、意識しないまま、心の底で、寂しさをつのらせ、
それがたまりたまれば、
周囲をうらむようなことにもなりかねなかったのだ。

そういう自分の弱さに気づいた。

自分の本心に気づいてふりかえると、
Aさんとの、過去のいさかいの謎も、
すべて解けるような気がした。

「あのときも‥‥」「ああ、あのときも‥‥」
自分は、同じあやまちをくりかえしていたな、と。

もとをたどれば、1年以上前、
私が体調が悪かったとき、それをAさんに隠し、
そこから、なんとなくぎくしゃくしていたことに
気がついた。
諸悪の根源はそのときだ、と。

そして、はっ、とした。

相手にも、自分と同じような弱さがある。

そう思ってみると、
「わからない」から、「ゆるせない」、
とひっかかっていた相手の言動も、
なにか、とてもよくわかる、気がした。
ずっとわだかまっていた相手のふるまいが、心から許せた。

過去が見えたら、素直に今の気持ち、
「ごめんなさい」が出てきて、

そして考えるまでもなく、これからすべきこと、
つまり、
身辺に一大事が起こったとき、
卑屈にならず、依存もせず、
でも自分は強いという幻想にもとらわれず、
外に対して「ちゃんと話す」、
ということが見えてきた。

過去、現在、未来がぴたっとつながった瞬間だった。

そんな内容を私はAさんへの手紙に書いた。

いつもなら、
手紙なんて出して相手は引かないかとか、
どう思われるだろうか、と
相手の反応がとても気になる私だが、
そのときは、心がぴたっ、と落ち着きはらっていて、
ほんとうに相手の反応が気にならなかった。

「どう思われても、これが、ほんとうに本心。
 ここからはじめるしかない」と。

結果、Aさんにとても伝わって、とても感動してくれた。

「自分はどうしたいのか?」
いまの自分の本心に気づくことが、
過去の謎を解き、相手とも橋を架け、
未来に自信をくれた。

その自信は、
自分が成長できたとか、スゴイ人間になれた
という自信ではない。

今後も自分は弱い。
今後も同じような事態にでくわすだろうけど、
「ああ、自分は弱いから‥‥」
と知って、対処していけばいい。

今後同じ事態にでくわしたとき、
もう、無自覚に他人を責めたりしなくていい。

心の根っこの本心が、
「コイツ自分をよくわかってくれてるよなあ」
「コイツなら自分がしたいように歩いていってくれるはず」
と信を置ける。

そういう意味での増えも減りもしない自信だ。

自分の心と行動がズレいるとき、
人はとても不安になる。
だから、なんとかそこに理屈をつけようと
言葉数が多くなったり、

いらいらしたり、
自己嫌悪になったり、

不安を、人に解消してもらおうと、
人にほめ言葉を要求したり、人の反応が気になったり、
でも、そういうときどんなにほめられても、
心と行動のズレが解消しない限り、
自信にはならないものだ。

それでも不安がおさまらないと、
他人のせいにしたり、他人を責めたりしやすい。

自信はどこからくるか?

外から与えられるものではない。
ましてや人からもらうものでもない。

自分の内なるものに気づくことからくる、と私は思う。

気に入りのMDにじっと耳を傾けているとき、

当時MDでせいぜい十数曲しかはいらないのだけども、
十数曲分の自分の心の「感動ポイント」に
気づかせてもらっている時間だと思う。

自分は、これまで、どんなものを、いい、好きだ、
かっこいい、と思ってきたのか。

その曲を聴いていたときの自分もよみがえってくる。

音に反応しているのは、
自分の素直な、本心に近い部分だ。

十数曲を聴き終わったときに、
十数曲分の心が「美しい」と思うもののありかに気づけ、
それが星座のようにひとつのまとまりとして像を結ぶ。

「この感覚を忘れなければ自分だ」

と自分を取り戻せるから、
「明日も自分らしく歩いていけそうだ」と
自信がわいてくるのだと私は思う。

山田ズーニーさんへの激励や感想などは、
メールの表題に「山田ズーニーさんへ」と書いて、
postman@1101.comに送ってください。

2008-03-26-WED
YAMADA
戻る