おとなの小論文教室。 感じる・考える・伝わる! |
Lesson402 幸せを実感するチカラ はたから見れば 恵まれた人間が、 幸せを実感できずにいるのはなぜだろう? 「あとなにがあれば‥‥」 ある大学の先生と会食したとき、 先生がそう口にした。 先生は大学の運営に取り組んでおられるのだが、 「あとなにがあれば、 学生たちは自分のキャンパスが好きになれるのか」 というのである。 どういうことかというと、 少子化の中、生徒集めもあって、 どの大学もキャンパスやサービスが 近年、格段によくなってきている。 その大学も、 ひと昔前、私が大学にいっていた時代によくあった ややボロボロの感ある大学と比べると、 うらやましい、すばらしいキャンパスだ。 これ以上なにを望むのか、という私に、 先生は言う。 「このキャンパスはきれいです。 広々としているし、緑に恵まれている。 校舎もきれいで、教室も施設も充分にある。 でも学生はそのことを実感できてない。 都心から遠いとか、 大学近くに遊ぶところがないとか、 聞けば、不満ばかりが先にたつようです。 きれいなキャンパスだ、好きだ、うれしい、 と思って通ってきてはいないんですね。 あとなにがあれば‥‥、 学生は、このキャンパスが好きだ、 と思えるのだろう? 私たち(大学側)が、 あと何をすれば、 学生は、きれいな環境に、きれいだと 気づけるのだろう。 あとどんな準備なり、働きかけをすれば、 学生たちは、 自分の大学だ、好きだ、うれしいと思って この大学にくることができるのか。」 あとなにがあれば‥‥、 という先生のこの「問い」の立て方に 私は、すっかり感じ入ってしまった。 学生のニーズなら、 調査やアンケートをすれば、 出てくるだろう。 カフェのようなおしゃれな学生食堂がほしい、 コンビニがほしい。 そんなふうに学生の要望に応える形で、 どんどん施設や設備を充実させていく、 近年そういう大学も多いのだろうが、 どうも、もうその方向だけでは何かが足りないぞ と長年、学生に接してきた先生が感じていた。 環境がどんどん充実しても、 もっと学生自身の内面にある問題。 恵まれた環境を恵まれている、と実感する「何か」 がなければ、 学生と環境を結びつける「何か」がなければ、と。 幸せを実感するチカラ。 私たちは、 というか、私自身、 案外、幸せのとなりにいるのかもしれない。 きれいなキャンパスに身を置かれながら、 きれいと気づけないでいる学生に 自分を重ねあわせたとき、そう思った。 自分は案外、幸せのどまんなかにいるんじゃないか。 そんなこと、思ってもみなかったけど、 日々、不足があったり、不服があったりで、 悩みながら、もがきながら、あくせくやっている自分だけれど、 視点を変えて、 ほかの眼から見たら、 実は、そうとう幸せではないか。 でも、毎日、 うれしい、幸せだ、この生活が好きだ、 と実感し、歓んで生きてないのはなぜだろう。 私にも、幸せに気づいたり、実感するための 「何か」が足りないんじゃないだろうか。 だとしたら、その「何か」とはなんだろう? あとなにがあれば‥‥、 答えはいまだ出ないのだが、 あれから、おりにふれては考えている。 あとなにがあれば‥‥、 と先生に問われたとき、 とっさに口をついて出てきたのは、 「もっと学生に労力を支払ってもらってはどうか」 ということだった。 なぜそんなことを思ったか、というと、 私の事務所でミーティングをやるとき、 参加メンバーが、もちまわりで食事を用意するように、 やり方を変えたことを思い出したからだ。 以前は、毎回、私が用意していた。 買い物も、準備も、後片付けも。 メンバーにとっては上げ膳・据え膳で。 それは、やってみるとけっこう楽しくて、 私のモチベーションはあがる。 だけど、ふと気づくと、 メンバーのノリがもうひとつ、というか、 受け身になってるんじゃないか、と思うことさえあった。 そこで、試しに、 今回は私が用意するけど、次はあなた、 というように、もちまわりでやってみると、 なんかいい。 「この場は自分がつくっているのだ」 という意識がメンバーにも芽生えるというのかな。 買い物も自己表現だ。 何を買おうか、どのくらい買うかで、 自分のセンスも披露されるし、 他のメンバーがどんなものが好きか、 話し合いをうまくいかせるにはどんなものを買ったらいいか と、自然に会の運営を思ったり、考えたりするからだ。 思うに、 上げ膳、据え膳で、 自分はその環境から与えてもらうばかり、 自分はなにもせず、ただしてもらうばかりだと、 その環境に対して、「単なるお客さん」になってしまう。 すると、受け身になってしまい、 主体性も、その環境に対する愛着も持てないのではないか。 少子化が進んで以降、学生は、 大学にはいるまえから、 とっても大事にされているように思う。 高校生が、下見もかねて 大学を訪問するオープンキャンパスからして、 高校生はバスで送り迎えしてもらい、 たくさんのプレゼントをもらい、 食事や飲み物もただで出してもらい、 丁寧な説明を受け、 さまざまな催しもただで見ることができる。 まさに上げ膳、据え膳、「してもらうばかり」だ。 大学にはいってからも、 芝を刈ったり、キャンパスに木を植えたりでもすれば、 最初は面倒でも、やがて 「自分の大学だ」という愛着もわくのかもしれないけれど、 いまどきそんなこと、はやらないし。 そうすると、へたすると、ただただ、 環境に対して、学生は 「お客さん」にまわってしまう可能性がある。 「お客さま」ほどわがままなものはない。 主体的に「する」ほうにまわらないと、 してもらう立場だと、 けっこう平気で文句は言えるものだ。 芝刈りや掃除をさせるというのは、 あまりに現実的でないにしても、 なにか学生のほうから労力を払って、 大学のためになにかやってもらうといいのではないか。 アイデアを出すなどの知的生産でもいい。 この大学は俺がつくった、とまでは言えないにしても、 このキャンパスのこの部分には自分が関わった、 と言えるときに、愛着も生まれ、 自分の大学だという意識も芽生えて、 キャンパスの美しさに気づけるのかもしれない。 あとなにがあれば‥‥、 自分が置かれている環境の幸せに気づけるのかと、 考えている自分も、 どこかで「お客さん」にまわっているところがあり、 どこか「お客さん」のように、 この東京に生活しているのかもしれない。 自分の生活に、 自分が必死になって労力を払い、必死に働きかけていく というのも、おかしな絵だけれど、 幸せに気づくチカラというのは、 そんな方向かもしれないと思う。 「気の持ちよう」などと人は言うけれど、 自分からは何も出さず、 ただ受け身で指をくわえて、 幸せを実感したいといっていても 実感できるものではなく、 自分の中にある アイデアなり、センスなり、経験なり、技術なり、 知力なり、体力なりを、 表現して、外に出して、支払って、 はじめて、その対価として、 外にあるものは自分の中に入ってくるのではないか。 そのとき、自分は外とつながることができ、 そのありがたみも実感できるのではないだろうか。 いまの自分にとって、 幸せに気づくチカラとは、 表現して自分の中になるものを外に支払うチカラと、 近いところにあるように思う。 はたから見れば恵まれているといわれても、 幸せを実感できずにいるとき、 あとなにがあれば? あなたは、幸せに気づくことができ、 実感することができますか? |
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2008-07-02-WED
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