YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson412  ひらく技術

「わかりやすくしろ」と言われたときどうするか?

「あなたの話はわかりづらい」と言われる人へ
具体的にどうするか、
このコラムがちょっとでも「たたき台」になれば嬉しい。

わかりやすくしろと言われたとき
わかりやすくしてはいけない。私の経験則だ。

「わかりやすくする必要はない。けど、ひらいていろ」

と以前もここで書いたように
私はよく自分にそう言い聞かせる。

いまどきの人は、情報社会で
けっこう良くものを知っている。それで、
「わかっていることを一から丁寧に説明されること」に
強い嫌悪感を持つ。

ばかにされたように感じるからだ。

わかりやすくと言われたときに
私たちが陥りやすいミスは、
一段低いレベルまで降りていって
そこから一段一段のぼるように
バカ丁寧に説明していくことだ。

でも、わかりづらいと言っている人は、
「自分には高度なレベルのことを理解する力がない」
と思っているのではなく、
「なんとなくあなたの話には入っていけない」
と思っていることが多い。つまり、

「わかりづらい=はいりづらい」

の意味で使っている人が多い。
それで、「わかりづらい」と言われたときに、
「幼稚園児」にもわかるように説明するのではなく、
「100人の外の人」にも通用するように
説明の手続きを変える必要がある。
「100人の外の人」とは
ある編集者さんから聞いた言葉で、

自分のことをまったく知らない、
前後のいきさつも知らない、
自分のムラ社会にだけ通じているルールや用語も、
まったく通じない、
自分の外の世界から来た、
初対面の多種多様な100人
とイメージしてみる。

「100人の外の人」から見て自分の話は通じているか?

通じていないと思うとき、では具体的にどうするか?

私もこれは試行錯誤のまっ最中だ。
それで今日は、自分が今、本当にやっていることを
「たたき台」として出そうと思う。

「自分の手のうち」をあかすことは
恥ずかしいし、この先やりづらくもあり
ほとんど「献体」に近い。

でも、どうぞ私のこの例をたたいて踏んで
この先に進んでください、
私もこの先に進むぞ、というつもりで出そう。

「わかりづらさ=はいりづらさ」と考えると、
「タイトル」と「書き出し」は、文章の入り口、
もっとも「ひらく技術」が問われる部分だ。

私の場合どのようにして間口をひらこうとするか?

少し前のコラム「いきやすい関係」を例にとって
説明すると、私は最初タイトルを、
「いきやすい関係」ではなく、
「グレーゾーンの住人たち」にしたかった。

親密な人たち=白、でもなく
あかの他人=黒、でもない、
「人間関係のグレーゾーン」を持たない学生がいる、
という事実に驚き、私自身、
「人間関係のグレーゾーンを見直したい」
と思ったのが純粋な書きたいことだった。
だから素直にタイトルを、

「グレーゾーンの住人たち」

とし、書き出しも、
まず、私が衝撃を受けた具体例から
いきなり書いていこうと思った。

「先日、大学でこんな話を聞いた。
 11人のゼミで、
 休みがちになった1人の学生がいて、
 聞いてみると、ゼミのだれ一人、
 その学生の下の名前も、電話番号も、
 知らなかったというのである‥‥」

というふうに。
でもあえて、そうせずに、タイトルを、

「いきやすい関係」

とし、書き出しもこんな主旨に改めた。

「“生きづらい”
 と感じる人が多い世の中で、
 もうちょっと“息のしやすい”“生きやすい”
 人間環境にできないものか?
 “いきやすい人間関係”について考えてみたい‥‥」と。

「好き」か「嫌い」かで言うと、
私は、「グレーゾーン‥」をタイトルにし、
具体例から入っていくほうが好きだ。
「書きやすい」か「書きにくい」かで言っても、
ダンゼンそっちだ。

けれども、「とじている」か
「ひらいている」かで考えると、
「いきやすい関係」のほうが、
間口はひらかれているんじゃないか、と私は思う。

「グレーゾーンの住人たち」

というタイトルは、
山田ズーニーとこのコラムに慣れた人には問題にならず、
もしかすると、こっちのほうがいいかもしれない。

でも、山田ズーニーとこのコラムを
まったく知らない人にとっては、
まず、「なんのこっちゃ?」というカンジだ。

まず小説なのか、実用なのか、個人の日記なのか
わからないタイトルだ。
だから、自分が読む必要があるのかないのか、
読んで自分にどういういいこと・役立ちがあるのか、
サクッ、とは判断できない。

新規でも好意的な読者には
「なんだかわからないけどおもしろそう」
「なんだかわからないからこそおもしろそう」
と思ってもらえる可能性はある。
でも、はなからそこに期待するためには、
よっぽど印象的なタイトルをもってくる必要がある。

まずタイトルで「なんのこっちゃ?」と
思った読者に、フォローするのが「書き出し」だ。
だが、その書き出しにも、具体例をもってくると、
具体例は総じて長いので、
主旨を読み取るのに時間と手間がかかる。

すでに読む動機がある人には、
具体例や体験談からいきなり書き始めても、
はいりやすいし、実感を持って読み取れるのだが、

「このコラムは何なのか? ズーニーってだれ?
 実用なのか? 小説なのか? 個人の日記なのか?」
さっさと正体をつかみ、
さっさと読むかやめるか判断したい、
と値踏みをしながら読んでいる人には、
具体例からはいっていくのは、ちょっとまだるっこしい。

もちろん、具体例そのものがそうとうに印象的か、
わけがわからなくてもぐいぐい読者を引き込んでいく
文章の魅力があれば別だが。

自分の文章力にも、読者の厚意にも、
はなから期待するのはおこがましいという状況で、
それでも、より多くの人が読んでくれるように
間口をひらいていたい、
と選択したときに、どうするか?

「人間関係のグレーゾーンを見直そう」
と結論から書き出すのは押しつけがましいし、
「あなたの人間関係にグレーゾーンはありますか?」
などと、それを疑問形に言い換えてみたところで、
グレーゾーンになど興味がないし、考えたくもない
という人には、うっとうしいだけだ。

それで、私がこのところ試みているのは、
後づけで「話の入り口」を逆算し
それを「タイトル」と「書き出し」にもってくる、
というやり方だ。

思うに「言いたいこと=結論」であることが多い。

私の場合、「グレーゾーンの住人たち」というのは、
話の「出口」、「結論」や
「答え」に近いところにある言葉だ。

いきなり「出口」や「答え」をぶつけても、
まだ「入り口」をくぐってもいない人、
そのことへの「問題意識」さえ自覚していない人には、
唐突で、スルーしてしまうことも多い。

「出口」があるなら、必ず「入り口」はあったはずだ。

「グレーゾーン」という「書きたいもの=答え」が
自分の中に浮上したということは、
その前に自分の中に、無意識でも答えを探していた
「問い」が必ずあったはずだ。

「入り口」にもどって、そもそも、
自分のにぎっていた「問い」は何だったのか、
と逆算してみる。

「グレーゾーンについて書きたいと思ったころの自分は?」 
とふりかえってみると、
人間関係が白か黒かに近づきつつあり、
それが、なんだかだんだんと自分を息苦しいところに
追いつめていたなあ、と思いあたる。

そこで、やっと、自分は、
「最近、息苦しいと思っていた人間関係を
なんとかできないものか」
という「問い」を握っていたんだな、と発見する。
その問題解決への一つの手立てとして、
「グレーゾーン」というキーワードが
自分の中に浮上したのだ。

そこで、「いきやすい関係」というタイトルをつけ、
「とかく息苦しい人間関係を
もっと心地よいものにするにはどうしたらよいか?」
という問題提起からの書き出しにした。

これならまったく初めての読者も、
タイトルと書き出しを読んで、
「人間関係をよくする
 なんらかのヒントが書いてあるのでは」、
「実用寄りのコラムでは」と見当をつけやすい。

また、職場やご近所といった人間関係に、
一度くらいは息苦しさを感じたことがある人も多いはずで、
「グレーゾーンの住人たち」という言葉をぶつけるよりは、
間口はひらいている、と思う。

ひらく=よい、とじる=わるい、ことでは必ずしもない。

「わかってくれる人だけを数少なく質良く引き寄せたい」
ときもあるし、
「1人でも多くの人にはいってきてほしい」
ひらきたい、ときもある。

志に応じて書き分けられるようになることが
いまの自分には必要であると思う。

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2008-09-17-WED
YAMADA
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