YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson421 弱さの品格

「強くなれ!」

と言われても、
弱い人間、
そんなにすぐにすぐ
強くなれるものでもない。

そんなとき必要なのは、
弱いなりにも品のあるふるまい
をすることではないだろうか。

弱さの品ってなんだろうか?

「人前で弱音は吐くな」「強くあれ」
と育ってきた大人からすると、
いまの若い人は、すぐに弱音もはくし、
ちょっとのことでへこむし、
いつまでもくよくよ悩むし、
ずいぶん、ひ弱だなあ、と思うかもしれない。

私も以前はそう思っていた。
そんな弱いことでどうする、と。

けれど、いま、大学で授業を持っていて、
不思議に学生の弱さがいやではない。
むしろ、弱さにひかれている自分すらいる。

品のようなものを感じるのだ。

たとえば、表現の授業で、
印象に残るスピーチをしたと、
学生たちからチーム代表に選ばれるのも、
決して主張の強い、雄弁な学生ばかりではない。

ときに、消え入りそうな、か細い声の、
言葉少なく、物腰の弱い学生だったりする。

たどたどしく、か弱いスピーチが、
ときに熱弁よりも強く、場内の集中を引き寄せ、
心にしみいってくることがある。

説得力、それとおりこして、勇気さえ感じることがある。

チーム代表に選んだということは、
他の学生たちも、
そういう弱い存在に、なにかを感じているということだ。

声高に主張する人よりも、
むしろ、弱い人の、ひかえめで、おぼつかない表現の方が、
ときに若い人の共感を得たり、
信頼を得たりしているのはなぜだろう?

先日も、「つらい」というようなことを
言ってきた学生がいた。

本人は「こんな甘えたことを言って恥ずかしい」と
言っていたが、
私は、甘えどころか、むしろすがすがしいとさえ感じた。

私たちは、小さいころから
「自己表現」をする訓練を受けていない。

だから、内にたまったものを外に表現する行為は、
おもいのほか、気持ちがいいことで、
多くの学生が楽しんでやるのだが、
人により、状況により、
つらくなってしまうときもある。

そういうときに、つらいことをつらいと言い、
直球で苦しんでいる学生は、
むしろ、強い、とさえ感じる。

自己表現の教育を、充分に受けていない私たちは、
表現の技術も少ないし、
経験も少ない、
人前で表現をして失敗したり、打たれた経験に乏しい。

自己表現に関しては、圧倒的に弱者だ。

それで、弱く、傷つきやすい者が、
人前でなれない表現をして、
思うようにできなかったり、
思うような反応が得られなかったとき、
場合によってはけなされたりしてしまったとき、
どうするか?

よくない道のとり方が2つあるように思う。
「自罰的」になるか、「他罰的」になるか。

自分が弱くて、
目の前にある現実が持ちきれないときに、
「裁き」に走る人がいる。

ひとつは、
思うように表現ができない、
あるいは思うような反応が得られない、
「だから自分はだめなんだ」
と自分を裁く人。
ゆきすぎれば、自分を攻撃したり、
それまで自分が大事にしてきた主旨をまげて、
変節をしたりしてしまう。

もうひとつは、
思うように表現をさせてくれない
あるいは思うような反応をしてくれない、
「だから人や社会が悪いのだ」
と、人や社会のほうを裁く人。
ゆきすぎれば、他人を攻撃したり、
他者に、変革を要求したり、
社会に、変革を強要したり、ということにもなる。

私が、学生をすがすがしいなあと思うのは、
このどちらにも着地しないところだ。

自分が弱くて、
目の前にある現実が持ちきれなくても、
自分や人を裁かない。

直球でつらがる。

つらいことを「つらいなあ」といい。
「なんだろうこのつらさは」と
つらさの闇に瞳をこらし、
「どうしていいかわからない」とおろおろする。

かといって逃げるわけでもない、
すりかえもしない。

ただくよくよしているように見えて、
実は、じっと持続して考えている。

弱いものの品とはそういうことではないだろうか?

「強くあれ」と育てられた大人は、
そこで、弱音もはくな、
というのかもしれないけれど、
それができれば一番いいんだろうけれど、
自分をふりかえっても、
弱いからこそ、それができない。

未来に強くなれるとしても、
いままだ弱く、時間がかかるというときに、
無理に「強くあろう」として、
私も、人を裁いたり、人を攻撃したり、
自分を裁いたりして、
より深く傷ついたことがある。

だから、学生たちが、
おもわぬ表現の苦しさ、
おもわぬ反応の厳しさに直面したときに、
なにげなくやっている、
純粋につらがる、ということは、
できそうで、なかなかできないことだと思う。

若い人は生命力が強いから、
無意識に「弱さ=未熟」という意味を
知っているように思う。

いいかえれば、
「自分の全力、まだまだこんなものじゃないぞ」
ということをどこか心の底でわかっているということだ。

だから、自分の潜在力を
まだ全部出しきってないうちに、
ほんの一面だけを見て
自分を裁くのははやすぎるし、

周囲の反応の是非を問うといっても、
自己ベストを投げかけたうえで
見極めないと、ということを
どこかで感覚的にわかっている、と思う。

だから、どこにも着地せず、しかし、
いまはまだ未完なので、くよくよする。

消え入りそうに、
言葉少なく、でも逃げることなく
スピーチをした学生を見て、
ある学生が、

「彼は血を流したな」

と言ったのが印象的だった。
強い人が嬉嬉として、何も持ち出さずできることが、
いまは弱い、未来に強くなる人には、
予想以上につらかったり、うまくできなかったりする。
人によっては血を流すような行為だったりする。
でも、そのことはちゃんと見る人にもわかるから、
逃げずに、ごまかさずに表現し終えたとき、
ささやかでも強い人にはできないメッセージになる。

その道の経験もなく、知識も、技術もとぼしく、
身を守るすべもないときに、
私たちは、赤子のように弱く、傷つきやすい。

傷ついたときに、
自分や人を裁かず、
逃げもせず、純粋につらがり、
ただじっと「つらさ」の闇に目をこらす、
いま弱くても、そういう品を持っていたいと私は思う。

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2008-11-19-WED
YAMADA
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