YAMADA
おとなの小論文教室。
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Lesson427 あとよし言葉の落とし穴


「いったん落として、持ち上げる」
クセがある人へ、

あなたの言葉は知らずに相手を傷つけていないだろうか?

たとえば、
「はじめは恐そうな人と思ったけど、
 つきあってみるとあなたが優しい人でよかった。」
「見た目、まずそー、とおもって一瞬、ひいたんだけど、
 食べてみるとおいしかった。」
というように、

ストレートに「優しいね」「おいしいね」と褒めず、
いったんネガティブなことを言って、落として、
そのあと、グッと持ち上げる、

「あと」に、「いいこと」、を言うから「あとよし言葉」。

よく使われる技法だけど、
「使い方」を誤ると意外に人を傷つけてしまう。

昨年暮れ、
私は、ある人に、腹が立ち、また、傷ついていた。

大勢のまえで、マイクで、どうどうと、けなされたのだ。

ずっきーん! と胸に走った衝撃と、
突き上げてきた悔しさは、いまも鮮明だ。

その人は私に恨みがあったのか?
いいや、私を講演に招いたスタッフの一人で、
感謝やご厚意こそあれ、悪気などひとつもない。

その人は悪い人なのか?
いや、きわめて善良、真面目で真摯な人だ。

そんな人が、なぜ、
公衆の面前で私を愚弄することができたのか?

その人は、けなそうとしたのではない。褒めたのだ。

結論から言えば、
私のことを、実際に会ってみると、
イメージしたよりずっときれいだと褒めてくれた。

褒めてくれたんだから、喜べばいい、と
何度も何度も自分に言い聞かせた。
だけど、心はちっとも喜ばないどころか、
ワナワナしていた。

その人が、「あとよし言葉」で、私を褒めるために、
まずけなした。その言葉に、
もう、あとから修復不能なほどダメージをくらっていた。

「どうせ最終的に褒めるんだから」

そう思ったとき、油断がしのびよる。

人に対する、あたりまえの思いやりや距離感を失わせる。

その人も、最終的には私のことを褒めるんだから、
初めの部分では少々のことは言っていいや、と、
いや、まず最初に下げておけばおくほど、
そのギャップで褒め言葉が際立つと思ったんだろう。

だから、主観的にいいことだと思って、
どうどうと、私が喜ぶと思って、声高らかに、
みんなのまえで私をけなすようなことができたのだ。
いつもは、決して人前で人の悪口など言えない、
善良で、心優しい、その人に。

終わりよければすべていい、のだろうか? ほんとうに?

「最初、おたくのお子さんは、
 ずいぶんブサイクで、
 バカなガキだと思ったんですが‥‥」
と切り出せば、
このあとにどんな褒め言葉をもってきたとしても、
たいていの親は気を悪くするだろう。

「あとよし言葉」は、
褒めようとする「本人」に対して使ってはいけない。
「まわりの人」に対して使うと効果がある、

コミュニケーションの初心者は、
まずそう心得ておいたほうがいいかもしれない。

あとよし言葉は、「信憑性」を持たせるためのものだ。

いきなりズケッと、
「私は最初、あなたのことをキライでしてね」
のような、ネガティブなことをはっきり言われれば、
言われた人は、
「この人は本音でものを言っている」
「この人はウソをつかない人だ」
と、信じ込むだろう。
つまりまず、「正直さ」がアピールできる。

相手に正直者だと思われたところで、
「いまはあなたのことが大スキです」と言えば、
ストレートに言ったら信じてくれないような相手でも、
あっさりと信じてくれる。

けれど、最初の「落としかげん」というのが大問題で、
やりすぎると相手を傷つけてしまうし、
手ぬるいと、正直さの証明にならない。

相手に致命傷を負わせないように、
ほどほどに、相手のことをいったん下げて、そのあと、
落とした以上におつりがくるくらい持ち上げる、
というのは、
実は、そうとうに高度なワザで、
人の機微に繊細な人しかできないワザだ。

ただし、初心者でも、本人に対してでなく、
「まわりの人」に対して、あとよし言葉を使うなら、
効果がある。

例をあげると、
新入社員が社長に、
「社長のお名前と風貌から、
 最初はずいぶんウサンクサイやつだなーと
 思っていたのですが、
 実際は立派な社長でうれしくなりました」
というのは、失礼。
いくら社長でも、面と向かって「ウサンクサイ」
と言われれば、いい気はしないからだ。

ただし、自分の友だちに、
社長のことを自慢するなら効果がある。
いきなり友だちに、
「ウチの社長ってすごいんだよー」と自慢をしても、
「え、おまえのとこの社長って、
 あのヘンな名前の、
 派手なスーツのウサンクサイおっさんだろ。
 入社そうそう、洗脳されちゃったのかよ」
と、受け入れてもらえないようなことがある、
そんなときに、

「俺も、はじめは、ウサンクサイやつだなーと
 おもっていたんだ。だけど‥‥」
と、まず、落としておいてから褒めることによって、
自分は相手と同じように、ものごとを客観的に見ている
ということがアピールできる。
あとの言葉に信憑性が出てくる。

自分のお気に入りのCDや、グッズを、
まわりの人に薦めるときも同じで、
「最初は、私もこんなもん‥‥、とおもっていたんだけど」
と、いったん落としておいて、あとよし言葉で話すことで、
言葉に客観性・信憑性がでてくる。

なぜストレートにほめないで、
「あとよし言葉」を多用する人が多いんだろう?

日本人独特の、表現への「照れ」、「不慣れ」、「助走」が
あるように思う。

ふだん、褒めたり、気持ちを表現する習慣が充分でない
私たちは、いきなりストレートに褒めようとすると
照れてしまう。
だから、なにか助走が必要になり、
ついつい、もたもたと、
ネガティブな前置きをつけてしまう。

それに、「きれい!」という肯定一本で褒めようとすれば、
ボキャブラリーが必要になってくる。
ふだん褒めなれていないと、
「きれい!」の一言で済んでしまい、
なかなか、そのあと、褒める語彙がでてこないものだ。

だから、無意識に、
「きれい!」のひと言を際立たせようとして、
その前に、相手を下げる言葉を言ってしまう。
なにかを褒めるより、なにかをけなすほうが、
ずっとやり易いので、ついやりすぎて、全体から見て、
「ひと言多い」「落としすぎ」な印象になってしまう。

これをふせぐために、
どうしても「落として・上げるクセ」が
やめられないという人は、
「落とす対象」を工夫するといいと思う。

例えば「一般」を落とす。

「最初、おたくのお子さんは、
 ずいぶんブサイクで、
 バカなガキだと思ったんですが‥‥」
と、当人にかかわる部分を落とすと、傷つけるので、
「私は子どもという存在が、
 そもそも全般的に苦手だったんですが、
 おたくのお子さんに出会って
 子どもに対する見方が変わりました。」と一般を落とす。

あるいは、「他の対象」を落とす。

「先日、天才児と評判の子どもの作品を見たんですが、
 ちっとも感動しなかった。
 おたくのお子さんの作品のほうが
 何倍も私は感動した。」と。

でも、初心者は「一発アタマ出し」で、
「きれい!」とか、「おいしい!」とストレートに、簡潔に
褒めたほうが伝わるし、相手の心象もずっといい。
そして、いつか相手の良さを、ぴったりとした言葉で
豊かに表現できるように、少しずつ、少しずつ、
語彙を増やしていくほうが楽しい。

「どうせ最後は褒めるんだから」

そう思ったとき、油断がしのびよる。
油断は、傲慢さに変わるときがある。

お店で、「どうせ高いものを買ってやるんだから」
と決めたとたん、店員に対する態度が横柄になる
客のようにだ。

けなそうとすれば、慎重にもなるし、言葉も選ぶ。
人は案外、けなそうとしているときより、
褒めようとしているときのほうが、
注意力を欠き、独善的になりやすい。

あとよし言葉の落とし穴はそこだ。
うっかり相手を傷つけてしまいかねない。

私自身、人を褒めようとしているとき、
「最終的に褒めてやるんだから、いいだろう」
と注意力を欠かぬよう、
いつもの、人と人との距離感・思いやり・慎重さを
忘れないようにしたいと思う。

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2009-01-14-WED
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