YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson431 まず自分と通じる


自分らしい表現をしていくために、
ふたつある。

1 まず自分と通じる。
2 自分にふさわしい表現構造を増す。

けなしてほめる話法でも、それ以外でも、
私たちは、うっかり人を傷つけてしまった、失敗した、
というようなときに、

言葉を禁止したり、話法を封印したり、
「だまる」ことでおとしまえをつけようとしてきた。

でも、不具合のある話法であっても、
それが今の自分に許された
数少ない持ち合わせの中にある
「想いを外に出せる装置」なら、
フタをしてはいけない。

表現の発路を、塞ぐだけでは、窒息する。

そんなときこそ、
「もっともっと自分が本当に言いたかったことの方を、
 もっともっとブレないで、相手に伝わるように、
 外に出せるようにしよう」
と踏ん張るべきだ。

そうして、より自分の本意のほうを、
より伝わるように、
外に出せる装置を見つけ、増し、豊かにして、
使いこなしていった結果、
不具合のある装置は自然に使わなくなっているといい。

「封じる」のでなく「出す」ことでおとしまえをつける。

きょうは、「まず自分と通じる」についてお話したい。

けなしてほめる話法にしろ、
ストレートにほめるにしろ、
ほめる以外の、人前で話すどんな場にしろ、

自分と通じている人の言葉は、人とも通じ合える。

つまり、その場、その時、その相手に対して、
「いま自分が本当に言いたいことは何か」と
まず自分に聞いて、それを表現することだ。

ただそれだけで、技巧がなくても、たどたどしくても、
不思議に通じ合う力がある。

けなしてほめる話法で、つい「けなし」に本音がこもり、
うっかり人を傷つけてしまったというときも、
やはり、それは、
「自分が本当に言いたいこと」ではないのではないか。

たとえ相手に対する嫌悪を根に持っていたとしても、
それを知って、どこが、なぜ、どうきらいか、
それに対して自分はどうしたいか、
それはこの場で言いたいことか、言わなくてもいいことか、
自分と通じていれば、
ふさわしくない場で、うっかり出てきて
相手を傷つけることもないんじゃないだろうか。

うっかり出た一言も、
自分の中から出てきたものとして
認めなければいけないが、
それは「出て」しまったのであって、
「出したかった」わけではない。

相手が傷ついたという予想外の結果に
「こんなはずじゃなかった」とオロオロ後悔すること自体、
目指していた結果は別にあったということだ。

自分の本当の願いは、「相手を喜ばしたい」とか、
「場にいる人と通じ合いたい」、というような
もっとあたたかいところにはなかったか?

自分が本当に言いたいことは深層にある。

自分でもまだ言葉にしてつかめていない深層にある。

それを出せなかったことを悔いたい。

人は「想う」生き物だ。
自分では意識しなくても、言葉にならなくても、
自分の深層は、つねに何かを想い、
自分が自分であるために必死で闘っている。

自分の深層と交信して言葉を発しようと心がけることと、
その手間をおしまないこと、がまず大事だ。

でもどうして、自分と通じている人の言葉は、
人とも通じ合えるのだろうか?

表現教育の経験で、
私が何か人の役に立てるとしたら、
それは、有名作家のような
表現力のスターを対象にしてきたのでなく、
高校生の小論文教育からはじまり、
「一般人」をずっと対象としてきたことだ。

つまり、うまく表現できる人のその先、ではない、
出せるか出せないか、伝わるか伝わらないか、
境界のところをみてきた。

そこで、これなくてはコミュニケーションがなりたたない
という表現成立のすれすれの要件を、
多様な実例を通して思い知らされている点だ。

誤解を恐れずにいえば、私は最近、

「もう話している内容は、
 どうでもいいんじゃないか。
 人は全然別のところで、
 その人に共鳴してるんじゃないか」

という問題意識さえ持っている。
先週、札幌で表現力育成のワークショップをやった。

雪の北海道で、出逢う生徒さんたちは、
当然、最初は、私にとってはよそよそしい初対面の他人だ。

それが、ワークショップの終わり、
わずか2〜3分、長い人でも4〜5分のスピーチを
聞いた後は、なんだかお別れするのが寂しいような、
懐かしさを感じている自分に面食らう。

もし人と居酒屋で4、5時間しゃべったとしても、
互いのことがよくわからないまま、
すれちがったままということさえあるというのに。
初対面の人とこのような、別れがたく、通じ合う域まで
わずか数分でいけてしまうことに驚く。

それがどんな話かというと、
テーマについて問いを立てて考える、
つまり自分の深層と交信するという作業を
1時間以上、ていねいにやったあと、
表現の第一段階として、
まずは聞く人のことを考えず、
「自分が本当に言いたいこと」だけを表現するものだ。

聞く人なんかおかまいなしに、
ただ「自分が本当に言いたいこと」だけを
表現しているのに、
聞き手を意識した表現より、強く共鳴するのはなぜだろう?

聞いていて、感動する、共感する、というよりもっと、
自分に近い感じ。

まったく初対面の他人であるにもかかわらず、
その人の話のどこかに、
「あっ、これ自分だ」
というような、自分がふっと入り込めるような瞬間があり、
その瞬間、自分と相手が通じ合っている。

初対面の人に、なぜ「自分」を感じるのか?

「自分と似たような経験をしたから」とか、
「同じ境遇だから」とか、
「似たような考えをしているから」とか、
そういう<共通項>のようなことで、私も最初は考えた。

でも、同じ経験、同じ境遇、同じ考えを語っていても、
だからなんなのだと、相手にいっこうに「自分」を感じない
どころか、距離さえ感じることさえある。

逆に、自分が生んでない子どもの話、
自分とは違う性別の男性ならではの悩み、
自分が経験も想像も及ばないような苦痛、
ある問題に対する自分とは逆の考え、
どちらかというと自分が敬遠するタイプの趣味、
ときに私が警戒する反社会的な行動、
を語っていたとしても、

ちゃんと心が共鳴し、
そこに「自分」を感じることがあるのだ。

人は同じ経験に共鳴するのではない。
同じ境遇に共鳴するのでもない。
同じ考えに共鳴するのでもない。

では何なのだ?

私が「自分」を感じた人ほど、一様に、
「話すのに勇気が要った」と言う。

これまでこのようなことは人に言ってはいけないとか、
人にこう思われようとしてきた、自分の殻を
取り去らないと、言えなかったと。

自分と通じることは、
自分にとって最も勇気の要る選択をする
ということに近いのかなと思う。

表現するためには選択をしなければいけない。
何しろ言うべきこと・言えること・言いたいことは、
自分の中にゴマンとある。
1つの場で言いきれることは、たいがいにおいて1つで、
1つを選ぶためには、他のすべてを捨てなくてはいけない。

「そのメインテーマ1つをどう選んで決めるか」

人によっては、この場でどうウケるかで決め、
人によっては、センスで決めるのかもしれない。
人によっては、エイヤーで選ぶのかもしれない。
人によっては、占いで決めるのかもしれない。

でも今回札幌で発見したことは、
数分で通じる表現をした人は、
その人が自分の深層と交信して、
「これではない」「これよりこっちがもっと言いたい」と、
交信して、交信して、交信しぬいた果てに、

「これしかない」「これ以外に自分は選びようがない」

と見てしまった。
それはときに自分にとって都合がわるかったりするけれど、
もうはっきりわかってしまった。
自分でもごまかしようがない。
というものを選択しているということだ。

たいていはそんなになるまで自分を見ないし、考えない。

選んだものが、聞く人にとって共通項があるかないか
などではなく、
「この人にとって、これ以外の選択が無い」
ということに聞く人は、内容を越えて、
共鳴するのかなと思う。

自分が自分であるということは
常に厳しく難しいことである、

私たちは、自分であろうとして、
しかし、なかなか自分になれないでいる。
自分らしい表現ができないとき、
自分が他人のようによそよそしい。

だからこそ、勇気ある選択で
自分の深層と表現をぴったり一致させている他人に、
自分が自分であるような懐かしさを覚えずには
いられないのかもしれない。

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2009-02-11-WED
YAMADA
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