おとなの小論文教室。 感じる・考える・伝わる! |
Lesson437 自分を生きなおす 日常生活のなかで、 ふっ、と虚しさがおとずれることはないだろうか? 何が不自由ということはない。 でもなにをしても満たされない。 自分は何かをまちがったのか、 自分はこれでいいのか‥‥。 こんなとき、どんなふうに 人生の舵をとったらいいのだろうか? ヒントとなる2人の生徒さんに 表現教育の現場で出会った。 プライバシーに抵触しないよう 改変を加えながら話そう。 Aさんは、女性。 美人で、頭がよく、家は裕福だ。 こどものころから、 周囲の状況を読む才覚があり、 そのなかで、どうすれば自分が優位にたてるか、 と策略し、ふるまう要領がとてもよかった。 大学にいくにも、 留学ひとつするのにも、 ステイタスになり、キャリアにつながり、 人からうらやまれるようなツボを押さえたところに行く。 ツボがわかってしまうし、できてしまう。 当然、就職も、ステイタスのある良い会社に入り、 エリートとして中枢のポジションを得る。 そして、女性があこがれる東京の一等地に住む。 「仕事は中枢にいてこそステイタス」 人に使われ、自由になる裁量が狭く 現場で言われた範囲のことだけをやる 職人かたぎの専門職を見下していたと彼女は言う。 でも、そういうふうにして、 ひとつひとつ人生の階段を、 どうすれば自分が優位にたてるか、 どうすれば人からうらやましがられるかと、 ツボを押さえて、要領よく、 上がっていくと、 「虚しい。」 「ほんとに虚しい」と、 Aさんは泣いた。 驚いたのは、その「虚しい」が、 私の中で、自分の声として響いたことだ。 私はけっこう好きに生きてきたつもりだ。 Aさんのようなステイタスもないし、要領も悪い、けれど、 「虚しい」 という感覚は、共感を通りこして まさに、リアルなわがことだ。 この気持ちはなんだろうか? そして、多くの女性があこがれるものを 努力してすべて手にいれたAさんが、その気持ちを 「虚しい」と言い切る姿は勇気があり、 とてもかっこよかった。 Aさんは、人生の舵を変更した。 Aさんは良い会社の良いポジションを捨てた。 人もうらやむ会社を捨てて、就いたのは、Aさん自身が、 「人に使われ、自由になる裁量が狭く 現場で言われた範囲のことだけをやる 職人かたぎの専門職」と言っていた仕事だ。 Aさん自身が「見下していた」と言う仕事に、 Aさん自身が好んで就いた。 現場で、 「相手の言いたいことや文化的背景をくみとりながら、 自分の考えを組み立て、 きちんと役だって、相手に喜ばれるのは、 なんと喜びの深い仕事か」 とAさんは言う。 もう一人。 Bさんは、男性45歳。 こどものころは、 クラスメイトがいじめにあっても 救ってあげられなかった自分がいた。 そうすれば自分がいじめられるから。 しかし大人になったいま、 そんな自分を問い直される事態が起きた。 退職する同僚の女性が、 Bさんにだけはうちあけると、 本当の退職理由を告白した。 上司からセクハラを受けていたというのだ。 Bさん以外、この真実を知らない。 衝撃にくらむ思いでその日は何もできなかったと言う。 しかし、Bさんの中に むくむくわきあがってくるものがあった。 どうして女性のほうが辞めなければいけないのだ。 悪いのは、辞めるべきは、上司のはずだ。 幼いころのいじめのシーンがBさんの胸をよぎった。 「こんどこそ、この女性を救おう。 こんどこそ救えなかったら、自分ではない」 翌日、社長に直談判する。 社長はなんとセクハラの事実を知っていた。 しかし、損得で考えれば、 女性が辞めるより、上司が辞めた方が、 仕事の損失が大きい、それで黙っていたという。 Bさんは社長にくってかかる。 しかし、社長にも会社の体面もあり、折れない。 けんかごしで数時間、社長とやりあい、 上司のほうを辞めさせないなら、 本件を社会に公開するとまで言った。 数時間の格闘のすえ、ついに社長は折れた。 上司のほうをクビにした。 しかし女性も結局辞めてしまった、とBさんは言う。 しばらくしてBさんも会社を辞めて 別の道を歩き出した。 Bさんの声に満足感と自信がみなぎっていた。 「この人は信頼できる」と私は心の底から思った。 「自分を生きなおす」 2人のスピーチを聞いていて、 感動とともにそう思った。 そして、私は、「虚しい」の言葉が わがこととして響いた理由が少しわかった気がした。 好きに生きてきた自分が、どうして虚しさを覚えるのか? Aさんの言う「虚しさ」は、多くの人に、 もっと言えば、だれしものなかにひそむんじゃないかと。 少年期は「自己確立」に必死だ。 自分が何者かわからないから、 ぐらぐらし、さまよい、それでもどうにかこうにか 何者かにならなければならないから たとえとりつくろってでも、自分をカタチづくっていく。 青年期は「社会と通じる」のに必死だ。 自己形成もそこそこに、社会という大海原に放り出される。 この社会が、会社が、仕事が、 なんなのかもわからない中で、 しかし、社会と通じ合いたい、 その中で、自分の居場所を得たい、 人や社会に認められたい。もっと言えば役に立ちたい。 それで、30代後半から中年期にかけて、 社会に通じたいと欲求が高く、がんばってきた人ほど、 社会と交信する間に、お留守になっていた、 自分の深い内面と、 再び通じ合おうとするんじゃないだろうか。 なにかをまちがったから虚しいのでなく、 社会的欲求に忠実に、がんばって、社会にアンテナを張り、 社会と通じ合い、居場所を得たからこそ、 卒業証書のように、 気づける「虚しさ」ではないかと思うのだ。 中年期は「自分の深層」と再び強く交信がはじまる時期。 そう思ったら、すこし、わくわくしてきた。 こどものころから自分の中にずっと通底してあった、 でもできなかった、自分と、 通じ合い、花を咲かせる可能性のある時期だからだ。 Aさんは、たとえ人から羨望をあびなくとも、 かけがえのない自分を活かし、 自分の好きな、実感ある仕事をする という方向で、花を咲かせつつある。 Bさんは、理不尽な目にあっている人を助けたいという、 自分の中にずっと通底してあった正しさと、 いよいよ通じて、花を咲かせ、ゆるがぬ自信を得た。 20代、30代とがんばって社会と通じ、 外ができたからこそ、 ドーナツのように、感じ取ることができる「虚しさ」。 日常生活のなかで、 ふっ、と「虚しさ」がおとずれるとき、 何かまちがったのかと不安になったりせず、 ましてや自分を裁いたり、 よその成功者の生き方を借用・盗用したりせず、 がんばってきた自分を認め、 静かに、自分の深層の声に耳を澄ませたい。 そこに、社会的成果とはまたぜんぜん違う、 どんな「花」が咲かせられるか、 楽しみに取り組んでみたい。 社会と通じる青年期、 再び自分の深層と通じる中年期、 それぞれに小さくとも自分の花を咲かせてその先に、 創造性に富んだ老年期が待っていると私は思う。 |
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2009-03-25-WED
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