おとなの小論文教室。 感じる・考える・伝わる! |
Lesson444 人とけものの間 東京で「ひとりぐらし」をはじめて14年目になる。 ある日、気づいて「はっ」とし、 自分で自分があさましい、と思ったのは、 電子レンジの前でカウントダウンしている 自分の姿だ。 たった数分、チンする間の、 その数分が待ちきれない。 ある日気づくと、あと1分、あと50秒‥‥30秒と、 電子レンジにはりついて、 ターンテーブルの灯りに目を凝らし、 カウントダウンしている自分がいた。 自分は食に意地汚いほうではない。 昭和ひとけた生まれの母に、 食習慣についてはきちんとしつけられた。 家族と料理をしたり、 友人をまねいて料理をつくるときは、 1時間、2時間へいきで、かけるし 人がそろうまで待てと言われても、 いっこうに苦痛ではない。 なのに、忙しい仕事と仕事の合間、 たった一人で食べるための、 ささやかな食物をあたためる、 電子レンジのたった数分が、 なぜ、待ちきれないのだろう? 自分は、こんなではなかったと、 そう思っていた矢先、 ちょうどこんな短歌に出くわした。 「あと1分 待つこと出来ず取り出した まだ冷たくて それでも食べた」 NHK「渋マガZ」というラジオ番組に投稿された 29歳男性の短歌だ。 自分と同じような人がいるものだな、 と思ってはっとした。 「ひとりぐらしの食事には食欲だけがそこにある」 家族や、好きな人どうしで食べるごはんには、 会話があって、生活があって、楽しみがある。 けれど、たった一人、必要に迫られてする食事には、 せっぱつまり、むきだしになった食欲だけが そこにある。 本能だけでものを口にするのなら、 それは、動物と同じだ。 むかし、「犬食い」という言葉を聞いた。 その言葉を言った友だちは、 あるデザイナーにあこがれて弟子になったのだけど、 そのデザイナーの食事のありようが、 あまりにもひどいことにゲンメツをかくせなかった。 仕事はたしかにすばらしいのだが、 食事の内容はあまりにもおそまつ。 人前でねころがって食べて、 それを見られても平気で、 食べ物を口にいれるさまは、まさに「犬食い」だと。 食欲だけなら犬と一緒か? いや、犬でもまだ、「待て」と言われれば 食事を待つ。 犬以下か? ひとりぐらしでは、欲求がむきだしになっていても だれも注意しないし抑制しない。 ターンテーブルがまわり終えるまでのあと1分、 私は、人間とけものの間にいる。 ここでけものになって食欲だけでものを口にするか? それでも「人間らしい」食事をするか? 人間らしさというものは、 こんなたった1分のようなところから 崩れていくように思う。 ここで、人間性もへったくれもない 食欲だけの選択をすれば、 小さくてもそれが習慣性になり、 人らしさは、すさんで荒れてゆく。 むきだした欲望は、他者の気持ちも、 忍耐もへったくれもない 暴走をする。 人でありたいのだなと私は思う。 1年前から、無意識に料理をするようになった。 そうせずにはいられないなにかがあったように思う。 1人でも、食べ物を、花の形に盛りつけ、 ワインをついで、キャンドルをつける。 長い長いひとりぐらしの時間のなかで、 だれも注意しないし抑制しないから、 欲望がむきだしになることは たしかに人より多いだろう。 でも私は、おなじ分だけ、 人であろうと闘ってきた気がする。 食べるもの、着るもの、掃除、せんたく、 毎日毎日、人であるための、ちいさな闘いをし、 営みをし、習慣性をつくってきた。 この生活は、だれからも注意されない抑制されないで 育んできたものだから、信じられる。 そうおもうと「ひとりぐらし」というありようも、 きわめて人間らしく思えてくる。 今日も、そして日々選択だ。 ここで、けものになりさがり欲望だけで突っ走るか? それでも人間らしくあろうとするか? 1分たらずの小さい小さい選択。 それでも私は人であろうとする。 だれが見ていなくても、私は人でありたい。 |
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2009-05-20-WED
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