YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson448  持ち出す感覚


表現というものは
恥ずかしさを伴うものだ。

でもその恥ずかしさを押して、
自分の中から何かを持ち出し、
伝えようとするとき、

内容以上に、その姿勢こそが
聞く人を励まし、解放するのではないだろうか?

私には、大学時代の友だち3人がいる。

この友人たちに会っているときは、
心の底から、くつろいで、
ここにいていい、
受け入れてもらっている
という気持ちになる。

別れたあとも、
あとから、あとから、
あたたかい、ゆったりとした気持ちに
満たされていく。

友だち同士、とくに
女の友だち同士というものは、
どこか競いあうような部分があり、
私も、いつもは、
「気の利いたことを言わなければいけない」
「この集団の中では、
 常に自分を磨いて、進歩してないといけない」
「おもしろい人間であらねばならない」
とどこか気をはっている。

でも、この友人たちといると、180度逆で、
「いまの自分のまんまでいい、
 許されて、ここにいいていい」
と力がわいてくる。

たまにしか会うことのない
この友人たちが、
でも、会ったとたん、
なぜ、そういう「うちとけた」関係をつくれるのか
というと、彼女たちの

「持ち出す感覚」ではないかと、私は思う。

彼女たちは、
ウケようとして、それを言うのでなく、
自分が尊ばれようとして、それを言うのでもなく、

ほんとうは、人に言うのが恥ずかしい、
知られたくない、出すのが痛い部分を、
まっすぐ出して、さらり、と澄んでいる。

「持ち出す感覚」

この言葉を、初めてのように聞いたのは、
表現の講義をしている大学で、
授業アシスタントをしてくれている大学生からだった。

表現というものは
恥ずかしさを伴うものだ。

だからこの恥ずかしさに耐え切れない人もいる。

逃げたくなったり、
あまり恥ずかしいと攻撃的になったり、
人に文句を言いたくなる人も出てくる。

私自身も、表現する途上で、
それらの感情がおこる。
いまだに、ときにいびつになったり、
ときに醜くなったりしながら、
表現しているので、その気持ちはよくわかるのだ。

ある日、「自分は恥ずかしい、つらい」というようなことを
訴えてきた学生がいた。

授業アシスタントたちと、
この訴えを聞いていたのだが、

驚いたのは、授業アシスタントたちの対応だった。

授業アシスタントたちは、
表現することの痛みも歓びも知って、
その上で、受講生の最高を引き出そうと
授業づくりに主体的に取り組んでいた。

だから、つらさを訴えてきた学生に、先輩として、
なにかアドバイスをするものと、
てっきり、私は思っていた。

「痛みをこえてこそ、思う表現ができるようになる」
とか、
「自分も恥ずかしさを越えて表現できるようになった」
とか、

ところが、授業アシスタントの一人が
伝えたのは、アドバイスでも励ましでもなく、
「感謝」だった。

「ありがとう。
 持ち出してくれて。
 授業をつくる側の人間として、
 そういうふうに持ち出してもらえるのって、
 本当に助かるし、うれしいんですよ」

表現に何らかのつらさを感じても、
こちらに何も訴えてこない学生も予想される。
そういうことを人に知られるのが恥ずかしい、と思う人も。

また、つらさに、まっすぐ向き合わずに、
都合よく、すりかえたり、ごまかしたり、
表面的な表現をして、
うまく逃げてしまう学生も予想される。
そういう人がもし、いたら、授業をつくる側としては
いちばんつらいことだ。

だから、この学生が、
恥ずかしさや抵抗感をおして、授業のつくり手に、
身のうちにある、切実な問題意識を、
「持ち出して」くれたことは、
ほんとうに勇気がいったはずだ。
授業の進歩につながる、歓迎すべき行為だ。
だから授業アシスタントは「感謝」を述べたのだ。

あとで、別の授業アシスタントが、
つらさを訴えてきた学生の、
授業でやった表現を思い出して、
「尊敬」をこめてこう言った。

「彼は血を流した」

人から見れば、どんなにささやかな表現であっても、
彼にとっては、そうとうの恥ずかしさを負って、
出したはずだ、それが尊い、という敬意の言葉だ。

「持ち出す」にしても、
「血を流す」にしても、
なにか、身のうちにあるものをしぼり出す、
身を削って捧げる、ような行為である。

どれだけりっぱな表現ができたかではなく、
身のうちからなにかを出したかどうかに、

アシスタントたちは、同じ学生として、
「敬意」と「感謝」を感じていた。

「持ち出す感覚」

たしかに、なにも持ち出さなくても、
何でも言ったり、書いたりできる。

自分の身は安全なところにおいたまま、
受け売りや、引用と引用のパッチワークや、
なにかを標的にして、批評したり、いじったり。

自分のなかにあるものは、
なにも「持ち出さなくても」、
血の一滴たりとも流さなくても、話はでき、
そっちのほうが見栄えがするときもある。

けれども、そのような言葉に人は動かされない。

表現教育の現場で、
いつまでもなぜか印象に残っているのは、
出し加減もわからず、大コケするのも恐れず、
身のうちにあるものを持ち出して話してしまって、
その結果、本人が、あとで恥ずかしさにヒリヒリと
照り返され、焼かれているような、そんな表現だ。

それでうまくいった表現は、ものすごく素晴らしく
感動に残るけれど、
うまくいかなかった表現もやっぱり素晴らしい。

いまどきの人は、そういう人を見て
「イタイ」というのだろうが、
私は、そう思わない、
頭(こうべ)をたれるような気持ちだ。

大学時代の友人3人が、
ひさびさに会っても、
一気にうちとけた関係をつくれるのは、
それぞれが惜しみなく
「持ち出して」話しているからだと思う。

そこに批評屋はおらず、
情報や知識の商人もおらず、
引用のパッチワークもない。

表現者だと私は思う。

長く生きてくれば、肉親のこと、家族の問題、
肉体や健康の問題、心の中の複雑なこと、
身のうちに、表現したくも、人に知られるのは恥ずかしい
それでも表現せずにはおられない、
切実な問題がある。

友人たちは、それを失敗を恐れず、躊躇せず、
かっこをつけたり、脚色したりせず、
それでどうこうしようとか、
どうこうしてもらおうとかも思わずに、一気に、
打たれるほど正直に、ありのままに表現して見せてくれる。

だから自分も、
いびつなところや、
ゆがんだところがあってもいい、
ここでは、出して、見せてもいいんだ、
この場では許されるんだと、
一発で解放される。

最も言いたいことは、
最も言いたくないことのそばにあると私は思う。

だから、表現というものは
恥ずかしさを伴うものだ。

そこで血を流して、持ち出すか、持ち出さないか。

持ち出してみて、
たとえうまく伝わらなかったとしても、
そのことで、あとで、恥ずかしさにヒリヒリしても、
私は、持ち出して、伝えてみる価値はあると思う。

たとえ、相手に「?」で、
わかってもらえなかったとしても、
「いま、この人は、そうとうの恥ずかしさをおして、
覚悟をもって、それを言ったな」ということは、
なぜか伝わっている。

内容以上に、その姿勢こそが、聞く人に、
自分も失敗を恐れず表現してみようかという気にさせる。
表現の風通しがよくなる。

また、恥ずかしさを押してでも、
自分の中から何かを持ち出し、伝えてみようとすることは、
相手を信じていないとできないことだ。
相手を大事に思っていないとできないことだ。

大学時代の友人に、
身のうちにあるものを、
めいっぱい持ち出しながら話してもらえて、
「あなたを信じている、あなたが大事だ」
と何回も言われるより、ずっと実感できた。

別れたあとも、
あとから、あとから、
あたたかいのは、その嬉しさだ。

血を流している人には敬意を払いたい。

そして、持ち出す感覚を持ち続けたい
と私は思う。

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2009-06-17-WED
YAMADA
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