おとなの小論文教室。 感じる・考える・伝わる! |
Lesson467 どうにもならないものを受け入れる力 7 「どうにもならないものを受け入れる力」とは、 どんな力だろうか? どうにもならないことは、 まさに「どうにもならない」のだし、 正解はないし、 たとえ正解めいたものがどこかにあったとしても、 まだまだ未熟な自分には到底つかめそうにない。 しかし、今回、読者の多数のおたよりをいただいて、 今後つらいことが起きたとき、 自分自身のために、 あらためて、これだけは刻んでおこうとおもうものが、 5つほどある。 ●初動を誤るな。哀しみはあとから満ちてくる。 ●生活の基礎を怠るな。特に「ごはん」だけは食べろ。 ●最適をイメージする。 ●ネガティブな心がわいたらいち早く抜け出す。抜邪心。 ●それまでの自分の良さと連続性のある今日を生きる。 「初動を誤るな。哀しみはあとから満ちてくる。」 どういうことかというと、 哀しみというものは、 ショックなことがあった直後よりも、 日が経つにつれ、大きくなることが多い。 ショック直後というものは、 防衛心が働いていたり、 ことの重大さがまだ具体的にふりかかってなかったり、 「意外と平気じゃないか。 しばらくたてばなおる」 と、軽視しがちだ。 でも例えば、愛するものを失ったとして、 別れの瞬間よりも、 日が経つにつれて、 「こんな場面にも、あの人はいない」 「こんな時にも、あの人はいない」 「こんな状況にも、もうあの人はいない」 と、だんだん、だんだん、 喪失感が具体化してきて、 日に日に哀しみが満ちてくることがある。 体の傷なら、当日が一番痛く、 日に日によくなることが多いが、 その感覚でいると、あとで足をすくわれる。 心の傷は、あとにいくにつれて大きくなることも多い。 だから初動が大事だ。 つらくても悲しみ直後は、まだいい。 自分でも比較的動ける時期と心得よう。 この時期に、 「落ち込んでいるので協力して欲しい」など、 家族やまわりの人に助力を仰ぎたいなら仰いだり、 しばらく分の食料を買い込んで、食欲不振に備えたり。 食事・睡眠・掃除・習慣づいた運動などの、 生活の基礎を整えたりして、 次なる哀しみの波に備えよう。 初動で、「これくらいなら、がまんできる。 ひどくなったら、そのときには人に相談しよう。 なに、数日経てば元気になるさ」 と、何も食べずに、夜更かし三昧、生活は荒れ放題、 などしていると、しばらくたつと、ズドーン!と、 肉体的に落ち込んでしまい、 そこから逆にまた精神的にゆりもどしがきて、 もうそのときには、人の協力を仰ぐ気力体力さえない、 ということにもなりかねない。 初動で自分を大事にすることだ。 今回、「ごはんをたべる」ということの重要さを あらためて認識した。 つらいときは、水分さえのどをこさず、 食べても腸が悩んで、苦しんでいるな、と思う。 それでも、時間がきたら、 何か優しいものをつくって食べる。 これを繰り返していると、日をおうごとに、 体が温まり、やがて今度は体のほうから、 心の傷を支えてくれるのを感じる。 生活の基礎を怠ってはいけない。 「最適をイメージする」 つらいときは、明日が見えない。 「この先自分はどうしたいか」「なにをやりたいか」 と聞かれても、それがわからないからつらいのだ。 しかし、私が仕事に干されていた日々、一日一回、 「いまはつらいけどもう一度教育の仕事をするんだ」と イメージして、コツコツ書き続けたように、 未来に細い希望ひとつあると、励みになるし、 実際それに向けて1ミリづつでも、器をひろげていける。 未来が見えないときに、いかに最適をイメージするか? これには、少しコツが要る。 自分を少し突き放して、他人のように見て、 まず「最悪のシナリオ」と「最高のシナリオ」を シュミレーションしてみるのだ。 たとえばここに、フラれた人がいるとして。 最悪のシナリオは、 心の傷のために、相手を恨み、体を壊し、 仕事がうまくいかず、容色は衰え、 そのせいで性格がゆがみ、まわりの人からも嫌われ、 孤独で、すさんだ人生をおくる。 最高のシナリオは、 傷つけられても、相手を恨まず、 かえって人の痛みがわかるようになり、 そのせいで周囲から好かれ、 仕事にも以前以上に身がはいるようになり、 コツコツ努力をして成果を出し、 その自信と、謙虚な努力の積み重ねで、 内から輝き、かえって美しくなり、 気がついたら、自分をふった人のことなど 限りなく小さくなっており、 それ以上に、愛し愛される人間関係が築けている。 どっちにいきたいか、どうしたいか、と 自分を問い詰めてもでてこないときは、 上記のように、ただ可能性として、 最悪の未来と最高の未来をシュミレーションしてみる。 それを繰り返していると、 「人を恨むようにだけはなりたくないよな」とか、 「最高とまではいかなくても、 仕事だけはがんばりたいな」とか、 どうしてもこうなるのだけはイヤだとか、 明日が見えなくてもここだけは大事にしたい、 というふうにして、おのずと、 自分にとっての最適のイメージが引き出されてくる。 最適をイメージしたら、 いまそうなれなくても、それができなくてもいい。 小さくてもそれに向けて、 コツコツ具体的な努力を続けていく。 ただし、傷がひどいときは無理をせず、 じっと傷の回復を待ってから動く。 「抜邪心」、 とは、このシリーズで、度々引用させてもらっている 古武道柔術の読者の言葉だ。 「私が習っている古武道の教えですが『抜邪心』と 『挑まず、逆らわず、傷つけず』という すてきな言葉があります。 もし勝てる相手だとしても、 怒りにまかせて術をかけてしまうと その時は、勝ったとしても後に 報復や社会的な敗北が必ず自分に跳ね返ってきます。 自分自身のよこしまな気持ちをいかに抜けるか、 今の世の中を生き残る上で もっとも適した判断だったのか? 瞬間的にイメージできるかが 人生を左右すると思います」 (いらんさぁ〜♪) 「よこしまな気持ちを、いち早く抜ける」というのは、 相手のためでなく、 ほんとに自分のために必要であるなあ、 とつくづく思う。 心が傷ついているとき、 いろんな感情の波が押し寄せる。 自分を傷つけた相手に対する憤りが突き上げたり、 相手を責めたくなったり、攻撃したくなったり、 しかし、そういう気持ちにとらわれて、 もし、実行に移したとしても、 また自分のように、傷つく人をつくることになり、 その傷がまた自分に跳ね返ってきて、 また、新たな傷を増やすだけだ。 傷がまた1つ増えれば、 自分の立ち直りもそれだけ遅れる。 よこしまな気持ちがわきあがるのはしかたがない。 わきあがったとき、できるだけはやくふりほどけ。 邪心が来たら、未来の最適をイメージして、 できるだけ早く抜け出すこと。自分のためだ。 今まで生きてきた自分の良さと連続性ある 今日一日を「生きる」。 読者のmiccoさんは言う。 <自分に流れるものに素直に生きる> 大阪の大学院で心理学を学んでいるmiccoという者です。 「受け入れる」とは 哀しいことがあっても、それまでの自分の良さと 連続性のある、今日一日を生きること。 本当にその通りだと思いました。 自分らしさを失うことや、 自分の思ってないことをしてしまうこと 心理学の世界では「不一致」といいます。 嫌いなのに好きなふりをしてしまうとか、 行きたくないのに飲み会に行ったりとかも含まれます。 あ、心理学の“世界”というか、 心理学の一派にすぎないんですけど。 状況が変わって、自分らしさを失って、 不一致を起こしているとき 時間がたったり、支えてくれる大切な人がいたりして、 自分を徐々に受け入れたり 認めてあげられるようになっていく。 そしたら自分の感情や、 自分の中に流れるものに気づけるようになっていく。 それに素直に生きていく。 それが「自己実現」で 自分を生きること、自分でいること。 自己実現は達成されて終わりとかそういう問題ではなく 流れゆくプロセスであり、一生繰り返されていくもの。 (micco) 哀しいからと、「らしくない」言動を次々とって、 自分自身からも疎外されることがないよう、 今まで生きてきた自分の良さとはつながって 生きていたい。 逃げず・戦わず・弱らず。 「どうにもならないものを受け入れる力」 まとめにかえて、5つのポイントをふりかえってみた。 シリーズはここでいったん終了、 また折に触れて、考えていきたい。 みなさん、ほんとうに素晴らしいおたよりをありがとう! 最後に私自身、どうにもならないものを受け入れるとき、 イメージしたい読者メールを2つ紹介して終わりたい。 <その瞬間、攻撃は攻撃でなくなる> 『稚拙なイメージでも、いまの自分で描ける最適を描き、 あとは、いずみさんの言うように、日々微調整を繰り返し、 最適が枯れないよう、現実と乖離してしまわないよう、 1日、たった1分でもいい、 最適のプログラムをイメージし、 プログラムをコツコツ書き換えて続けていく行為が、 結果的に希望になっていくんじゃないか。』 その通りだなぁと思います。 紹介された読者の方々や、 ズーニーさんのお母さんのように、 自分を支える力を日々コツコツと育てることで、 人は自ずと受け入れられるだけの器に なっていくのだろうと思います。 私も現在、受け入れられない問題と直面しています。 問題は変わってはくれないし、追い込まれもしましたが、 追い込まれた時に「問題を受け入れるには、 その問題より自分が大きくなるしかない」と気付きました。 追い込まれるのは生まれ変わるチャンス なのかもしれません。 『マトリックス』という映画に とても印象的なシーンがあります。 キアヌリーブスの演じる役は、 初めは怒りにまかせて敵と戦っていましたが、 ある窮地でふっと、 敵の動きがスローモーションで見えるようになります。 そうなるともう敵の攻撃は攻撃ではなくなります。 恐れや怒りなど、自分をかき乱すものが消えさり、 自分の中に静寂が訪れた時 初めて問題に対処できる自分になれる 今はそんな気がしています。 (Sarah) <勝ち負けの基準をどこに置きますか?> 古武道柔術の術理に置き換えて考えてみたい と思います。 言葉にすると『型』になってしまいがちですが! 適当にイメージしてみてください。 私が嗜んでいる古武道柔術は、攻め技がない、 暴漢のみに対応する護身術です。 攻撃がないと言うことは、後・先、前・後で言う、 『後』になり、受け止める側です。 一般的な考えでは? 後手に回るな!先手を取られるな! 先手を取られ、守りに入ったら『負け』 みたいなイメージもあります。 後手に回って相手を制すると言うことは、 さらに『先の先』を見据える事のできる、 自然体な反応が必要です。 どうしようもなく逃げられない外力を 受け止め“続けられる程、 ヒトには、限界があり、それほど強くありません。 どうしようもないことを受け止めるのではなく、 その外力に対しての自分の接点を維持(逃げない) したまま、 外力に自分が潰されないように(ぶつからない) その外力を意識しすぎずに、 わずかにゆらぐ方向(未来)へ全身全霊で、 自分の感覚を信じて進むことだと思います。 感覚の話なので言葉にするのが難しいですが・・・ 受け入れるではなく、 『受け入れつつ流す』事だと私は考えます。 人生の勝ち、負けの基準をどこにおきますかね? もう答えが出ていますが! 古武道柔術の教えも負ける事が死ぬことで、 生きることが勝つことです。 (いらんさぁ〜♪) |
山田ズーニーさんへの激励や感想などは、
メールの表題に「山田ズーニーさんへ」と書いて、
postman@1101.comに送ってください。
2009-11-11-WED
戻る |