おとなの小論文教室。 感じる・考える・伝わる! |
Lesson468 2人称=「あなた」がいない 先日、社会人向けの文章教室で 鋭い発見をした生徒さんがいた。 「相手に伝わる文章を書く」 というねらいのもとに、 職場の上司でも、自分の親でも、友人でも、恩師でもいい、 具体的な一人の相手を選んで、 その人に伝わる文章を書いていたときだ、 「すごく恐ろしいことに気づいてしまった」 とある生徒さんが、言った。 「これは、相手に向けて書いてるんじゃない! すべて自分に向けて書いているんだ!」 聞いている私は「ゾクッ!」とし、 他の生徒さんたちも、 「自分もそういうとき、あるある!」と 共感することしきりだった。 「相手に向けて言っているようで、 実はすべて自分に言っている」 文章や会話が、 そうなってしまっているときって、 あなたにはないだろうか? 卑近な例で言うと、 風のうわさで、最近、ともだちのAさんがフラれ、 落ち込んでいると聞いたとする。 そこで、「様子うかがい」&「励まし」の メールを書くとして、 Aさんへ 最近、元気ないみたいだけど大丈夫? (→最近、自分はいまひとつ元気が出ない。 自分らしくない、どうしちゃったんだろう、 自分は大丈夫か?) 彼となんかあった? (→自分の彼は最近ようすがおかしい。 なんかあったんだろうか? 不安でたまらない) おせっかいかもしれないけど、Aさん今、 仕事でチャンスだから、せっかくのチャンスを ムダにしないでがんばってほしいなって。 私はAさんの仕事の姿勢がとっても好きだから。 (→どうも自分は最近、仕事に身が入ってないみたいだ。 大事なときなのに、チャンスを逃がしたらどうしよう) 私でよかったら何でも話してみて。 人に話すことですっきりすることも あるんじゃないかと思って。 (→自分はこのまま悩みを ほうっておいていいんだろうか? だれかに相談したほうがよくはないか? 他の人はこういう不安にどう対処しているの? 私はどうしたらいいの?) 心配しています。 (→自分の恋のゆく末が心配でたまらない) という具合に、 カタチは相手に向けて書いているんだけど、 実は、内心、不安で不安で、 自分のことが気になってしょうがなくて、 そこから離れることができず、 相手に何を言っても、何を書いても、 自分を投影してしまい、 結局は、自分の枠から一歩も出られず、 すべて「自分」に言っている文章。 鏡写しのように、すべて出した言葉が、 反射して自分にかえってきて、 相手と出会えないし、相手と交われない。 寂しき「ひとりずもう」の文章。 2人称=「あなた」がいない。 読者のかたでピン!ときた人はいると思うが、 そう、この生徒さんは、すでに仕事を通して、 相手や社会と通じ合うという経験を 充分やってきているから、 自分の文章がはまった「落とし穴」に、 自分で気づくことができたのだ。 この生徒さんの鋭さには、毎回脱帽している。 ときに自分を投影した文章を書くことがあっても、 それに気づける人は問題ない。視野が広いのだ。 問題なのは、「2人称=あなた」がいないことに、 自分で気づいていない人だ。 最近、気になる話を聞いた。 男子学生の間で流行っているという「女装」の話だ。 「女装」をすることで、自分を解放することは問題ない。 賛否はあるだろうが、私自身はむしろ応援したいくらいだ。 問題は、就職活動で面接官に聞かれ、 「趣味は女装です」と自己PRする学生がいる ということだ。 たぶん、そう言う心理には、 「言いにくいことも正直にさらけ出す、 自分の勇気を認めてくれ」 「ありのままの自分を受け入れてくれ」 「自分にうそをつかず人と関わりたい」 という善意が働いているのだろうが、 どうもちがうと私は思う。 そこには、「1人称=自分」はいても、 「2人称=あなた」がいない。 「まず自分と通じる」というのは、 コミュニケーションの立脚点だ。 自分という氷山の底にもぐり、 「本当に言いたいこと」を、人目を恐れず、 正直に、勇気を持って表現する姿は、 聞いているほうまで、感動する。 しかし、それは、あくまでスタートであって、 ゴールではない。 この「さらけ出し」に快感を覚え、味をしめると、 いつでも、どこでも、だれにたいしても、 自分をさらけ出したら、 それで伝わると勘違いしてしまう人がいる。 「伝える」というのは、そんなに甘くない。 そこには厳しい「相手理解」が要る。 自分とはまったく別の人間である「他者」を、 どれだけ、背景ごと、正しく、深く、理解するか。 自分の願望の投影ではなく、 自分と別個の人間として、いきいきと立体的につかむか、 が肝心だ。 就職活動の面接官であれば、 面接官は、日々、どんな気持ちで、何を求めて、 面接の場に臨んでいるのだろう? 入社してからどんなキャリアを積んでそこにいるのだろう? ときに残業したり、汗水たらして、 日々、面接する学生に何を求めているのだろう? この不況のなかで、会社が生き残ることも、 価値ある仕事をしつづけていくことも、 仲間を集めることも、 どこも本当に大変で、限られた面接時間に、必死で、 チームの一員として、仕事を支えてくれる人材を 探している。 その必死さに対して、 「女装をする自分をありのままに受け入れてくれ」 というのは、 あまりにも「他者がない」と私は思うのだ。 決して、「自分をいつわれ」と言っているのではない。 「都合が悪いことは隠せ」ということではない。 自分にうそのない表現から出発して、 そこから一歩も引かず、 でも、「相手理解」をつきつめたときに、 多面的な自分の中から、 「ほかならぬ、その相手」に対して、「言うべきこと」は、 もっと別のものがあるのではないだろうか。 自分のその業界に対する思いとか、 チームで仕事をするときに役に立てる自分の長所とか、 相手理解をつきつめたときに、 自分から、引き出されるものは、 もっとほかにあるのではないか? 「伝わる文章」を書く生徒さんは、 やはり、「2人称=あなた」がブレない。 たとえば、友人なら友人に向けて文章を書いていても、 第三者である私が、その文章を読んでも、 その友人がどんな生き方をしていて、どんな考えを持ち、 どんな性格の、周囲からどう思われている人なのか、 人物がいきいきと立ち上がってくる。 伝わる人は、相手という人間を、 自分の投影ではなく、 自分の都合に合わせて見るのでもなく、 「相手」という人物をありのままに、 目に見えない背景も思いやって、 行動や言葉やエピソードや、 よく観察し、よく理解している。 もしも、文章を書いていて、相手の存在感が薄いとき、 結局、自分を投影し、 自分に言っている文章になっていないだろうか? 自分の枠から1歩も出られない文章に なっていないだろうか? 「2人称=あなた」がいないとき、 1にも、2にも、「相手理解」だ。 相手の情報を取り込み、 相手の背景、現状、将来への望みなど、 立体的に、ありのままに、つかむことだ。 そして、「相手から見た自分」をとらえる。 私自身、2人称がいなくなるとき、 そのようにして、「願望の中のあなた」ではない、 ここにいる、自分とは別の、ありのままの「あなた」を つかんでいきたい。 いま、文章を書いている相手、 いま、会話をしている相手、 そこにほんとうに、「2人称=あなた」はいるだろうか? |
山田ズーニーさんへの激励や感想などは、
メールの表題に「山田ズーニーさんへ」と書いて、
postman@1101.comに送ってください。
2009-11-18-WED
戻る |