おとなの小論文教室。 感じる・考える・伝わる! |
Lesson491 誰にも言わないで 「誰にも言わないで」、 ある日、そう口止めして、 友人に、それこそ、誰にも言えない話をした。 友人は、ひとしきり話を聞いてくれたものの、 「私は、誰にも言わないで、なんて、そんな 人に口止めするようなやり方はしない」と、 暗に、ピリッと私の行為をたしなめた。 そのときの私は、ちぇーッ、って感じだった。 「なんだよ、あなたのことを信頼しているから、 あなただけに打ち明けたんじゃないか。」 誰にも言わないでね、と口止めをして、 ここだけの話をする、 みんなよくやっていることだ。 なのになぜ、友人は不快をあらわにしたのだろう? 友人は、大胆というか、 きっと多くの女性が、ここまでは言えないよな、 ということも、正々堂々と、あけっぴろげに話をする。 考えれば、彼女から、 誰にも言うなと、口止めをされた覚えが無い。 人に知られたらまずいような内容、 頭の固い人が聞けば、 不道徳と決め付けられるような内容でも、 彼女は、恐れず口にし、いったん口にしたことは、 人に知られてはばからないという潔さがある。 その肝の据わり方はたいしたものだ。 けど、私はそこまではできない。 あえて人に言いたいとも思わないし、 それに、人に言ったところで、 彼女のような面白い話などひとつもない。 そのときの私は、単なる性格の違い、と言い聞かせつつも、 あと味の悪さが消えなかった。 それから、かなり月日がたったある日、 表現教育の現場で、 生徒さんが、 「これから話すことは人に言わないで」と 口止めしてからスピーチしようとした。 とっさに、私は、 「あ、これ、なんか違う!」 と思い、その行為をとめた。 つまり、 「誰にも言わないでほしいことは、 ここでも言わないでほしい。 人に聞かれてもよし、と自分が決めたことだけを、 ささやかでも、表現してほしい」とお願いした。 とっさのことだ、 直感的に動いて自分でも驚いた。 私は、なぜ生徒さんの 「誰にも言わないで」を止めたのだろう? あの日、自分だって、友人に対して言ったじゃないか、 「誰にも言わないで」と。 表現の教育では、 とくに自己表現をする場面で、 生徒さんが、意外な内情を表現することがある。 たとえば、 いま男性として、あるいは女性として 外見上暮らしているけれど、 ほんとうは、中身はそうではないのだ、 とカムアウトした人も、 26年間の表現教育のシーンの中に何人もいた。 「実はいじめをしていました」と クラス全員の前で表現した高校生もいた。 人が聞いたら「ドン引き」してしまう、こんな趣味が、 それでも私にはあるのです、と広い講義室で 表現した大学生もいた。 表現の主題に、そのような「言いにくいこと」を取り上げ、 それでも表現する人は、 話す前に、もう、立ち姿としてただならぬ 人を引き込む何かがあり、 話しはじめると、えも言われぬ緊張感、一体感で 聞く人を引き寄せてやまず、 表現し終わったとき、周囲の感動の中、 非常にすっきりした表情をしている。 しかし不思議なことに、 いままでだれ一人「誰にも言うな」とことわって 表現する生徒はいなかった。 私が受け持つ人数は、100人200人はざらで、 ほぼ最初にやったワークショップが400人、 今まで最大で800人超え、 だから、生徒さんは、表現する時点ですでに、 公に対して言うのであり、 口止めが通用しない規模という現実もあるが、 そういうことでなく、 表現する人に覚悟が備わっている。 新米のころは、 むしろこちらのほうが心配するくらいだった。 表現者はスッキリし、聞いた人は感動、 私もとっても感動したけれど、 とくに生徒さんが未成年の場合、あとで、 心無い人にいじめられたりしないだろうか、と。 ところが、私の心配をよそに、 表現のハードルが高ければ高いほど、 その生徒さんは、ほかの生徒さんから支持された。 カムアウトした青年は、 後日会ったときに、たくさん友人が増えていた。 言いにくいことをはっきり言った高校生は、 そのあと、友だちと堅く手を握り合っていた。 友だちの目には涙が滲んでいた。 「表現するには勇気が要る。」 あらためてそのことを思う。 支持されているのは「勇気」なのだ。 話の特異性ではない。 いなかの高校で、 あるいは、まだまだ偏見も多くある日本で、 あるいは、狭い自分にとっての世間で、 「それ」を言うのは勇気が要る。 人は勇気ある表現に吸い寄せられる。 勇気なくできることに、たいして面白いことはない。 表現教育の経験を通して、 なんどもなんどもその事実を目の当たりにしてきた。 「表現ではない」 と私は、友だちとのいきさつを思い出して思った。 私が、友だちに口止めして言ったことを ふりかえった。 「あんなの表現でもなんでもない」と。 「誰にも言わないでね」と、 人に口止めして、 自分の言いたいことを垂れ流す。 もしも、言ったことが後で人に知れたとき、 「あなたが言ったのね、裏切ったわね」と、 言った相手を恨むようになる。 でも、自分が持ちきれなくて、 でも公然と言う勇気も出なくて、言えないことを、 「他人の自制心に頼る」カタチで、 もらしてしまうことは、いいことなんだろうか? 自分の気は楽になったかもしれない、 しかし、他人の言葉の蛇口には、 つっかえをつくってしまった。 自分の括約筋ぐらい、自分で管理しないとな。 「書くことは、世界に向けての行為だ。」 以前、小論文の編集者をしていたとき、 いちばん信頼していた先生が言った。 別に、新聞に投稿するとかそんなことでなく、 1人の相手に手紙を書いているとしても、 自分のために文章を書いているとしても、 ほんのささいなメモを書いていたって、 書くことは、自分の外に向けた行為だと。 自分の言葉を外に出すときは、 勇気と責任を持たなければならない。 いったん自分の外に出た言葉は、 親である自分を離なれ、子どものように、 一人歩きし、旅立つ可能性がある。 少なくとも、人に言う勇気がもてないとき、 「他人の自制心に甘えるカタチ」で、 垂れ流すことは、表現教育に携わる私は、 なるたけしないほうがいい、と。 「書くことは外に向けた行為」。 例の友人は、そのことをよくわかっていたのだと思う。 友人は、書き続け、40歳をかなりすぎてから 文壇にデビューした。 友人は、いま、プロとして「書く」仕事をしている。 彼女は、自分のことも赤裸々に作品に書くことがある。 彼女には、日ごろから、いったん自分の口から出た言葉は、 どうとでもしてください、という覚悟と潔さがある。 そんな彼女を見ていると、 ある芸術家が言った、 「自分の人生のすべてを作品として、天に提出する」 という言葉を思い出す。 彼女には、裏も、表もなく、 すべての言葉、のみならず、 日々自分がやっていること、自分の選択のひとつひとつが、 すべて「勇気ある表現」なのだと思う。 そして、そこに恥じない姿勢がある。 人に言えないことはやらないのだし、 自分がやったことに対しては、 どんなに人から非常識と言われても、自信を持つ。 彼女のことを表現者だと思う。 「誰にも言わないで」と口止めして秘密を明かす。 人は弱いから、他の人に、これをするなと言うつもりは もうとうない。 でも表現教育に携わり、自分も表現者である私は、 そんなとき、すこし、言葉をためてみようと思う。 やがて言葉が発酵して、勇気に変わるかもしれない。 弱い自分だけれども、それでも、その時々の判断で、 自分の身の丈でもてるだけの、 「勇気が要るほう」を選んで、言葉を発しよう。 |
山田ズーニーさんへの激励や感想などは、
メールの表題に「山田ズーニーさんへ」と書いて、
postman@1101.comに送ってください。
2010-05-19-WED
戻る |