おとなの小論文教室。 感じる・考える・伝わる! |
Lesson514 大竹しのぶはなぜ食わず嫌い王で勝てないのか 3 ーーそこに行く 3回目になるこのシリーズ、 映像監督、俳優、ダンサーなど、 実際に「表現」をしている人からも多数、 素敵なおたよりが届いている。 まず、表現現場の声から お聞きください。 (*途中から読まれる方へ、 キーワード「表現」「演技」の私なりの定義は、 Lesson512をお読みください。) <説明でなく、表現する> ダンスが大好きで、 日々バレエやらモダンダンスやら筋トレやらやり、 話が来たら舞台に乗る。そんなアマチュアです。 何年か稽古を続けてきて、 体が少しは効くようになってきて、 はた、と躓いていました。 身体は動く、でも、それに何か乗せるものがなくて、 ただの運動になってしまっていて。 ダンスは即興でない限り 振付にのっとって身体を動かすわけなのですが、 前回の舞台では、何度も何度も「即興」をやり、 そのよかったところを師匠がつみとって 再構築してシーンを作る、そんな作業をいたしました。 即興では、たとえば幸せがお題だったら 幸せに没頭して身体を動かす、 自分の人生の中でいっちばん幸せだった「その瞬間」 それだけを身体に満たして身体を動かすことを 求められます。 その幸せはこうこうこうで、こんなことがあって、 幸せだったんだ。という説明は一切必要なく、 その瞬間の幸せ満々を、それだけを、 1分なら1分、3分なら3分、やり続けなければならない。 「一瞬」を身体に満たして動くということが、 やってみるととてもとても難しくて、 なまじっか勉強ができてそれなりの人生を? 送ってきた、 自分がやってもその瞬間に没頭するってなかなかできず、 枝葉に終始してしまうんです。 これがあって、こんなことがあって、 だから幸せだったのよ。 という説明に逃げて、その「瞬間」は 手をふいっと動かしてはいおわり! みたいな‥‥ でも、通っているスタジオに変な人がいまして、 その人は、コミュニケーションをとりづらい人で、 お土産のお菓子が配られても、 その時ほんとに食べたくなかったら、 「いらないです」と言い、 いやいやまあどうぞ、とさらにすすめられても、 もらっておいて後で食べるとか思わず、精一杯 「いやほんっとにいらないんです!!!」 と言ってしまうような人です。 でもその人の踊りは ほんとに「その人そのもの」で、 幸せなら幸せな即興を見ていると こっちが涙ぽろっと出てしまうような、 マンガに描いたらうようようよっと エネルギーが出てるような、 即興をします。 それはその幸せを演じてるわけでなく、 ほんとにどっぷり頭から足先まで、 幸せを表現してる。 そんなダンサー、なかなかいないのです。 どこを探しても。 自分もどっぷりつかれた経験がありますが、 ほんとに疲れます。 たとえ1分でも、「いけた」時は、 頭の中のどこかが大層疲弊していて、 身体も当然疲れていて、 本気だったからそうだよな。 と納得してしまうような疲弊具合。 身体を削ってるような。 大竹さんや香川さんは、 どっぷり浸かれる人なんだろうなと思いました。 昨日下北沢の小さい劇場で3000円の芝居を観ましたが、 どっぷり浸かれている人とそうでない人が3対7くらいで、 ああそうだよね、難しいよね。 でも3000円払ったらせめて半分超えてほしいな。と思いつつ 何人かどっぷり浸かれている人がいただけ 3000円の価値はあったかな。と 思いながら帰りました。 10000円くらい出して、 大竹さん香川さんクラスの舞台を観たら どっぷり浸かれてる100%の舞台が観られるんだろうけど。 香川さんのように「いや全部自分ですよ」と言えるほど、 自分を削って何かを取り込める人って ほんとにいくらお金を出しても足りないほど 素敵な瞬間がありますね。 その何かに浸かれる人って、何を捨てて、 それを手に入れてるんだろう。 (ダンス大好き) <自己理解と共感力> Lesson513で書かれていた 「自己表現」と「表現」の違い、痺れました。 自分でも何となく「ちがうんだよな〜」という思いが ありましたが、もやもやしていた部分 がハッキリする快感と、 「自分もきっとやれるはずだから諦めないぞ」 という気持ちが強くなります。 優れた表現者は、 『自分の中から湧き出た成分で別人格を表現する。』 全くその通りだと思います。 映画「ウェイトレス〜おいしい人生のつくりかた〜」で、 主人公の旦那さん(誰も理解できないくらい自己中心的)を 演じたジェレミー・シストという俳優さんがいます。 彼はちょっと普通じゃない人の役を演じると 天下一品の役者さんですが、 その映画のインタビューで、 「あんなに利己的な人をどうやって演じているの?」 と聞かれていました。 彼はそれに 「誰にだって自分勝手な部分はあるでしょう? それを100倍にすればきっと彼の気持ちになるんだよ。」 と答えてました。 自分にある気持ちを、そのまま表現するのが「自己表現」。 ズーニーさんが言われていたように 『配合を変えて、外に出す』のが 「表現」だと思いました。 優れた表現者になるためには、 自分のどんな感情も知っておかなければならないのだ と思います。 明るい感情も、暗い感情も。 役のふり幅は、そのままその人の 「自己理解」の度合いなんだなぁと思いました。 そして「共感力」も必要だと思います。 「この役の気持ち分かるなぁ」という共感を 基にした演技でないと、 表現者としてお客さんを納得させられないのでは、 と思いました。 先日の食わず嫌い王で、 蒼井優ちゃんが「大竹しのぶ以来の最弱王」 として紹介されていましたね。 なんだかますます彼女が好きになりました。 (きみさく) <共感力を鍛える> Lesson513を読んで なるほど! と納得しました。 そして「役になりきる」ということは、 想像力かなと思いました。 「役になりきる」ことのできる人は、 その役の気持ちをリアルに想像でき、共感し、 自分の中でその気持ちが起こった場面を再現できる、 というか。 最近、脳の機能の話しを聞く機会があって、 すごく面白いと思ったことは、 ある困難な場面に遭遇したときに、 それに対処するために 様々な方法を考え出す時に活性化する脳の部分が 他人とコミュニケーションをとる時に 相手の気持ちを汲み取ったり、 共感する時に活性化する脳の部分と近いと言うのです。 つまり、私が解釈したのは、 様々な視点で物事を考えて解決方法を探ることができる人は 他人の気持ちを汲み取ることが上手で、 様々な人の気持ちに共感できるということです。 逆に考えると、様々な経験をして 自分の視点や視野を広げることは 他人とのコミュニケーションも 円滑にするかもしれないんですよね。 優れた俳優というのは、もしかすると そういった働きをする脳の部分が 発達しているのかもしれないと思いました。 (麻子) <そこに行く> 以前、大竹さんのドキュメンタリー番組があり、 印象的な場面がいくつかあったので、 お伝えすべくメールしている次第です。 Q: 「演じるというのは楽しいですか?」 大竹: 「すごい楽しいです。 自分の中では新しい血がもうぐるんぐるん回ってるのが わかるから。この数年、もっともっとそれが さらにパワーアップしたっていうか‥‥ どんどんどんどんどんどん元気になるんです。 ‥‥てか、何でみんな疲れてるのかなって 思うことあります(笑)」 Q: 「役柄に入るとき、キッカケは必要じゃないですか? 例えば『この言葉は分かる』とか‥‥」 大竹: 「いや、言葉が手がかりじゃないんです。 そこに行けばいいんです。 その脳をイメージするんです。 あぁ、だから‥‥うまく説明できないけど‥‥うーん」 Q: 「当然、彼女のこと(役)を深く理解して 演じてはいるわけですよね?」 大竹: 「‥‥そうですね、はい。 その(舞台の)1か月の間に、 その人の体のしぐさとか表情っていうのが、 だんだん身についてくるわけですよね。 で、『行く』っていうのは、その本番に入って もう実際にその人として演じる場合に 舞台に立った瞬間なんですけど、 例えば○○として手を縛られて歩くときの体の状態、 つまり血液の流れの速さも含める‥‥体の体重、 頭の締められてる感じ、目の開き具合とかも含めて‥‥ こう(袖から)舞台に出たときは その体になるっていうのが仕事だと思うんですよね。」 「考えて『こうやって歩く人にしよう』って 思ってるわけじゃなく‥‥こう(袖から出て)歩いたら、 こういう歩き方をしてる。『ああ、○○さんてこうやって 歩くんだ』みたいな。『あ、足、今ひきずってるね、私』 って教えられるんですよ、○○を演じてる私に。 ‥‥なんか私、だから説明できないんですよ。 ‥‥でも、そこに行くのが仕事ですよね?」 ▽馴染みの料理屋のおかみさんのコメント 「ほら1回ほら、何だっけ? 舞台で大きい声を出すと、 ほかの役者さんがみんな声かれちゃうんですよ。 その時、彼女(大竹さん)全然かれなかったのね。 で、何でなのって聞いたことがあるの、一度昔に。 そしたら『え〜だって赤ちゃんって、 ずっと大きい声で泣いてるけど声かれないでしょ』って。 『だから大きい声を出そうとするから 声がかれちゃうわけで、普通にその感情で 大きな声が出たりすると人間はそのままだから 声はかれないでしょ』って言ってて。なるほどなって。 あ〜この子って、そういう子なんだって。」 ちなみにこの番組の後、 しばらく私のマイブームワードは「脳をトレース」に なりました(そのくらい衝撃的でした☆)。 (みるくねこ) 「そこに行く」とは、どうすることか? 「そこに行く」 この言葉を聞いて、 思い出すのは、生徒さんを泣かせたことだ。 私は、生徒さんを泣かせた。 号泣させた。 通常、私が接しているのは、 表現のプロではない人、 ときに、生まれて初めて、 自己表現をする人もいるので、 生徒さんの書いた文章に、 コメントを書くときは、非常に慎重になる。 生まれて初めての自己表現に対して、 私がどんなコメントを返すかで、 その人が、一生、表現を嫌いになるか、 好きになるか、左右されることだって あると思うからだ。 だから、書いてある文章の、背景を 読もうとする。 そもそも、この人は、 いま、なぜ、書こうとしたのか、 文章というカタチに、乗せようとした想いは いったいなんなのか? 深読みしたり、想像したり、 論理的に考えたり、 なんとか、その文章を書かせた、 その人の「想い」にたどり着こうとする。 だいたいわかった、とおもって 書いてみるものの、 いざ、コメントを書く段になると、 しっくりしない。 声に出して、その人になって 読んでみたりする。 でも、理解が足りない。 そんな日は、あきらめて、寝て、 次の日、トライしても、まだ だめなときがある。 しかし、洗濯を干したりしているときに、 ふと、「そうだ!」と思って、 コメントを書くんだけれど、もうそれは、 私が、相手に返している、というよりは、 相手の想いに行き、相手に成り代わって コメントを返しているような状態で、 こういう感じになると、コメントは一気に書けるし、 自然に涙が出ていることもある。 そのときも、そんなふうにして、 女の生徒さんに、コメントを返した。 女の生徒さんは、 私のコメントを読んで、泣いて、泣いて、 読み返して、また、号泣して、 泣きっぱなしになったそうだ。 それは、翌日、髪を切りに行ったとき、 美容師さんから、 「どっ、どうしたんですか? 目、ぼこぼこに腫れて!!!」 まるで試合あとのボクサーかと 驚かれたほどだった。 その女の生徒さんは、 「どうして私の言いたいこと、 私の気持ちが、こんなにわかるのか、 自分以上に、自分を理解された」 と私のコメントのことを言っていた。 私は、瞬間、完全に、 自分ではない、相手になって物事を見、 相手になって、感じていた。 涙は、私が感動したからというよりも、 相手が流している涙だ。 私が相手になって泣いている。 表現指導の現場でも、なかなか、 そうなることは少ないのだが、 自分ではない、 相手の想いに行って、 そこから書いている感じだった。 読者の3人は言う。 <演じるということ> 以前、アラン・ドロン氏が SMAP×SMAPにゲスト出演していたときに、 言っていました。 “フランスでは 専門の学校(国立のコメディ・フランセーズ)で 演技を習って演技をするのが コメディアン(日本の喜劇役者の意味でなく、 ドロン氏が言うのは特殊な技術を持つ演技者という意)、 役者がその役を生きるのがアクターだ”。 この二つがどうやらフランスでは厳密に区別され、 異なるものと認識されているようでした。 ドロン氏は後者を自認していて、 いろんな役をやる際、 自分ならこの役の人生をどう生きてきたか、 を考えながら演じてきたと言っていました。 (正一) <なりきる、でなく、生きる> 私は5年くらいアマチュアで演劇と舞踏をやっていました。 そのとき、特に舞踏の経験から思ったのは、 舞台に上がっているとき、 「自分」というか自意識はなくなっていた。 役になりきる、というより、その舞台の世界で その役を生きているという感じです。 集中できたときは、一瞬一瞬がとても静かに ゆっくり時間が流れているのに 一時間があっという間に過ぎている。 そして自分を飾る意識が すべて剥がされてさらけだしている、 そんな感じです。 だから香川さんが「理想なのは演じないこと、 ただそこにいること」とどこかの番組で言ったときは 本当によくわかりました。 (演劇と舞踏) <そこに行くの正体> 映像の監督をしています。 優れた役者は、必ず台本に戻ります。 何故ここでこの人はこう言うのか。 何故こう言わずこの言葉を言うのか。 普通こう言わない所、にその人物の意図が 隠されているものです。 例えば憎んでいる相手に向かって「愛してる」という台詞は どんな表情でどんな言い方で言うべきか。 騙して安心させて殺すつもりだからか。 その場を取り繕うだけか。 誰にもそう言う人物の悲しい癖なのか。 本当に愛してしまったからか。 役者は客に誤解させないように、 その人物の意図を演じる必要があります。 意図が違えば言い方も身振りも変わるでしょう。 言う相手には嘘がばれないように、 かつ客には嘘をついていることを分からせる、 高度な事を役者は演じる事が出来ます。 それが台本に書いてあれば。 勿論台本には台詞と多少の身振りしか書いてありません。 だから読むんです。読み取るんです。 その人が何故ここでこう言わずこう言うのか、 文脈と意図を。 役者が監督にこの人の気持ちはこうじゃないか、 と聞いてくる時は、そんな複雑な時が多いです。 悲しいから泣くのか、 悲しいから泣いているのをその場の人に 当てこすりしているのかその両方か、 どっちの配分が多いのか。 物語は、悲しいから泣く、怒ったから腰に手をやる、 楽しいから笑う、などという 単純なものの連続ではありません。 泣くには意図が、怒るには意図 (威圧するために怒る、 怒っちゃいけない場面で感情的になる、などなど)が、 笑いにすら意図があります(悲しいから笑う、とか)。 役者はその解釈が合っている確信があれば そのまま進めます。 解釈で話し合うこともあります。 監督の最終的な仕事は、 全体の文脈でそこは露骨にしないほうがいいと思ったり、 他の役者とのアンサンブルを調整して よい和音にすることです。 アドリブについては僕はあまり感心しません。 ズーニーさんのいう自己表現になり、 役から離れる危険があるからです。 (いかりや長介は台本主義でした。 志村加藤は文脈よりもその場のノリのアドリブを 取り入れ、結果は彼らの勝ちでした。 タレント主義が受け続け、 今はネタという台本主義に振り子が戻っています) かつて大竹しのぶさんのドキュメントを見ました。 彼女は迷うと何度も何度も台本を読んでいました。 そこにぜんぶ書いてあるから、と言っていました。 そこに行くのが仕事 (台本の中にいる人物のところまでいく)、と。 憑依の正体はこれだと思うんです。 まずそれを完璧に分かること。 (分かったからすぐ出来る、てのも凄いんですが。 いい役者は、例外なく頭がいいです。 テストの成績とかじゃなく、 文章を読み取る能力がまず高いのでしょう。 出番がない間その人物は何をしていたか、 などの想像力も高い) 役者が役によって別人に見えるのは、役が違うとき。 スタローンなんかは同じ役をやり続けていますね。 みんなそれを期待するから。 日本人だと、宮崎あおいとかが それに苦しんでる気がします。 表現と演技と、自分に向けられてる期待。難しい話です。 (映像監督) 「文脈と意図を読み取る」 これは、文章表現の指導に置き換えると、 「文脈と根本思想を読み取る」、 非常に、腑に落ちた。 文章は、たとえ「バカ」と書いていても、 「あったか〜い想い」で書いたら、 温かく感じるというように、 書き手の根っこにある想い、が、 すべての表現の源だ。 (*「根本思想」という用語を初めて聞く方は、 「Lesson26 要約でわかる! わたしの心」に 詳細があります。) 「そこに行く」とは、「相手の根本思想になる」 ことだと私は思う。 スタートは、自己表現。 自分の想いを表現できるようになるためには、 「自分に忠実」でなければいけない。 つねに自分にうそをついている人は、 自己表現のスタートラインにも立てない。 お菓子を食べたくないとき、 食べたくないと言う。 そんなささいなことであっても、 表現のビギナーは、 自己を理解し、そういう気持ちも認め、引き出し、 その想いを、言葉や行動で外へ出すことが大事だ。 次に「相手理解」。 読み取って、理解して、共感して、感情移入して、 最終的に、相手の「根本思想」に迫る理解ができる。 すると、今度は、 相手の「根本思想」になって、 物事を見、表現できるようになる。 私は先週、 「自分から出た成分で、 別の人格を表現するとき、 優しい・冷たい・熱いなどの自分の成分の、 配合と出し方が変わる」 と言った。 ただし、役者がいちいち、 「ここは、いつもの自分の優しさは10%に押さえ、 冷血さ300%で」と、配合を意識して 演じるわけにもいかない。 どこかで、配合のスイッチがはいるのだろうな と思っていた。 「相手の根本思想」に行くことができたとき、 この配合が、カチリとスイッチが入るように、 「相手の配合」に変わる。 普段から、自己表現のトレーニングをしていて、 自分の中にある想いを 「外に出す=表現する」ことができていれば、 相手の「根本思想」をわがもの、 とできたとき、その想いを 「外に出す=表現する」ことは自然にできるはずだ。 きょうは、ここまで考えた。 |
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2010-11-03-WED
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