YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson550
    現代人はなぜ忙しいのか?



なつかしい後輩とひさびさに晩ごはん、
しかし、

「お忙しいこととは思いますが、
 よかったら晩ゴハンでもご一緒に‥‥」

「きょうは、お忙しいところ
 来ていただいてすいません‥‥」

「最近、お忙しいですか?」

人を誘って、会って、ゴハンを食べる。
たったそれだけのことに、現代人はいったい、何回、
「お忙しいのに‥‥」と謝らなければならないんだろう?

私自身、人にたのみごとをするとき、
忙しいのに悪いなあ、と
みょうにびくびく縮こまっている。

「現代人はなぜ忙しいのか?」

昔に比べたら、
ずっと楽になっていいはずだ。

手で洗濯をやっていた母さんの時代とくらべ、
いまは「全自動洗濯機」が乾燥まで一気にやってくれる。

泊りがけで行っていた出張だって、
「のぞみ」や「飛行機」であっという間だ。

手書きの手紙や企画書、
まちがったら修正液でインクを消していた時代とくらべ、
パソコンで、切るだけ・貼るだけ・保存もできる、
送信だって、メールボタンで一瞬だ。

ひとつひとつの作業は、まちがいなく、
ケタちがいに
時間が短縮されている。

なのに、手で洗濯の時代と比べ、
のぞみがなかった時代と比べ、
パソコンがひとり一台なかった時代と比べ、
どんどん加速して人は忙しくなっている。

おかしい。

洗濯機がうかしてくれた1時間は?
のぞみが短縮してくれた往復2時間は?
パソコンが3日かかる作業を1日に縮めてくれた2日は?

浮いた時間はどこへ消えたんだろう?

現代人は、がんばっている。

仕事をまじめにがんばり、
さらに効率をあげる方法も、ビジネス書などで
勉強して試している。

なのに、いっこうにラクにならない。

がんばるほどに、どんどんどんどん忙しくなり、
せかせかといつもなにかに追い立てられ、
ストレスをかかえこみ、
常になにか、こう、肩に力がはいっていて、
ラクはおろか、肩の力を抜くことさえ、
自分ではうまくできなくなっている。

結論から言うと、

「死を遠ざけたこと」、それが、
現代人の忙しさの元凶だ。

仕事で、
杉浦日向子さんの書評を担当し、
江戸人がなぜ「楽」に「粋」に生きられたのか、
切実な興味を持った。

答えはすとん! と腑に落ちた。

人生においてやるべきことの量と、
自分の命のサイズが、
ピタリ! つりあっているからだ。

人生50年なら、50年で、
自分の身の丈で、背負いきれる分だけしか、
あらかじめ、目標や責任をしょわない。

51年分を背負いそうになったら、
1年分は肩から下ろし、そぎ落とし、
カラリと捨てて、あきらめる。

江戸人がどうしてそんな
命のサイズピッタリの見積もりができたかというと、

「死」を懐に招きいれたからだ。

車の運転のうまい人が、
自分の車幅をちゃんとわきまえていて、
すれすれの道も1ミリもこすらないように、

人間にはもともと、自分の命の車幅を、
自分で感じ取るセンサーが備わっているんじゃないかと
わたしは思う。
江戸人は、知恵と度量が発達していて、
それがさらに研ぎ澄まされていたと。

「命以上は、しょわない。」

一方、現代人が、なぜ忙しいかというと、
命以上を背負うからだ。

人生80年なら80年で、
自分では意識しないまま、
実は、90年分、いや100年分、
いや人によっては、120年分もの、
願望・目標・責任をしょいこんで、
「できる・やらねば」とがんばっている。

80年の命のサイズで、無自覚に、
120年分のやることをしょいこんでしまったら、
120−80=40年分は、
「効率」をあげねば追いつかない。

結果、一生効率に支配され、

はやくはやくと追い立てられ、
必死になって急いでも、
決して一生楽にならない。

現代人が、
自分の命のサイズをかなりオーバーして、
やるべきことをしょいこんだ元凶は、

「死」を恐れたからだ。

80年という自分の車幅、ならぬ、命幅は、
実はおもっているよりずっと短い。

しかも、老いや、病も手伝って、
その80年も、若い頃のような知力・体力完璧なかたちで
あるとは限らない。

そのあまりにもはかなく、
後半は不自由するかもしれない自分の命、
その先にある「死」を認めて受け入れるのは、
かなりツライ、できれば逃げたい作業だ。

だから、現代人は、「死」から
目をそらしたり、気持ちをまぎらわしたりすることにも、
知らず知らずに技術を使ったんだろう。それどころか、

延命治療や、若返り手術、美容技術で、
いつまでも若く・健康で・きれいに生きられるような
「幻想」を肥大させてしまった。

その幻想の分だけ、命のサイズ感覚もブレ、
身のたけ以上の責任・仕事・ストレスまで背負い込む
というツケがきた。

わたしは、38歳で、会社を辞めようか辞めまいかと
ものすごく迷ったとき、

別に死にたいわけでも、
病気があったわけでもないのに、
人生ではじめて、ものすごく、
「死」を身近に感じていた。

いまはわかる。

あれは、人生の大きな選択に際し、
命というモノサシをあてて考えていたのだ。

「自分の命のサイズに照らしたとき、
 これはいるものか? いらないものか?」

杉浦日向子さんは、34歳の若さで
隠居と称して、漫画家をすっぱり辞めたが、
今から考えると、46年という自分の命の短さを
どこかで感じ取っていた人だと思う。

死を懐に招きいれる勇気、器の大きさがあった。

やりたいこと・やるべきことと
自分の命のサイズが、ピタリ釣り合ってブレがない。
そこに、精神的「ゆとり」が生まれる。

「あきらめることは、敗北ではない。」

私は、杉浦さんからのメッセージを
自分なりに、そう解釈した。

「あきらめること」は、
江戸人のもっとも発達した知恵である。

あきらめることは、
自分の夢のサイズを、自分の命のサイズに
ピタリあわせて修正する行為だ。

残された限りある命を活かすための知恵だ。

「死を懐に招きいれる」

正直、今の自分にそれができる度量があるかというと
自信がない。

でもこれから、死につながる、「老」や「病」を、
細かく、きっちり、受け入れていくレッスンの先に、
等身大の命のサイズが見えてくるのだと思う。

その瞬間、夢と命のサイズがピタリと釣り合い、
余分なものがすうーっと肩から降りて、
肩の力が抜けるんだと。

そして、

自分の命のサイズを、自分で自覚したとき、
目の前をよぎる、

「自分の命のサイズに照らして、どうしても要るもの!」

それに臆面もなく、飛び込み、つかむ勇気、
もてる表現力のすべてをなげうってでも、
その瞬間を味わいつくし、楽しみつくそうという心意気
が生まれる。

そこに本当の「楽」が生まれると私は思う。

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2011-07-27-WED
YAMADA
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