おとなの小論文教室。 感じる・考える・伝わる! |
Lesson557 伝わらないの向こう側へ! 「伝わらない」、 と傷つくとき、そこをどうブレイクスルーするか? 先日、静岡の大学で、 学生たちが、 何が起きたかと驚くほど、 「伝わる表現」をした。 言いたいことを言っても、 伝えたいことが伝わらないのは、 世の常だけど、 今回、学生たちの多くが 「伝わると伝わらないの境界線」を跳んで 伝わるほうへ行けた。 そのブレイクスルーポイントは何か? 今年から、 私のワークショップを 単位化してくれた大学が3大学になり、 先日、静岡の大学で、 3日間、15コマ、 時間にして1350分=22時間半の 集中した文章表現のワークショップを立てた。 最終日には、 就活のエントリーシートにつながる、 「私が将来やりたい仕事」を 書いて、発表してもらうのだが、 これが、とてつもなくいい! この12年間に行った何十大学でも、 トップレベルにいい。 どの大学にも一定数は、 いわゆる文章表現のうまい学生がいる。 それは私が行っても行かなくても もともと書ける一握りの人たちだ。 でも、今回は、ほぼ全員がいい。 しかも、初日からの、「のびしろ」がすごい。 なんというか、 その文章は、 「伝わっている。」 通常、 まだ働いたことのない学生たちが、 仕事について語るとき、 「自分探し」と「社会貢献欲」が 引き裂けた状態になりやすい。 社会に役立ちたい、世界を良くしたい、に傾けば、 どこかきれいごとの、そらぞらしい、偽善的な、 実感と離れたものになりがちだ。 一方、 実感の側に傾けば、 自我の磁場から抜け切れない、 自分探しの作文のようになってしまう。 しかし、その日の学生たちの発表は、 今まで生きてきた等身大の自分に立脚し、 そこから、社会に役立ちたい、 世の中をこのように良くしていきたい、 というビジョンが、1ミリも乖離せず、 実感を持って、生き生きと伝わってきたのだ。 「自分らしく、社会的説得力のある表現」 私がゴールに描いた表現が、 まのあたりに繰り広げられ、 私自身が、にわかには信じられなかった。 長年、学生の就活支援をしてきた キャリアセンターの職員も、 「日ごろ目にする学生たちの エントリーシートには見られない」と、 その伝わる力に驚いていた。 なにが学生の表現力を引き出したのか? 直感的に思ったのは、 他者理解だ。すなわち、 「自分とは違う1人の他者を理解できるか?」 ここが、伝わると伝わらないの境界だと 私は思う。 ワークショップは、 初日の「自分と通じる」、 2日目の「相手と通じる」、 最終日の「外・他者・社会と通じる」 3ステージで、ステップアップしていくのだが、 今回、学生たちが、 もっとも苦労し、もっとも努力し、 真摯に、くらいついた、と言ってもいいのが、 2日目の「相手と通じる」ステージだ。 それぞれ、自分にとってかかわりの深い、 具体的な、一人の相手を決めてもらい、 その人に伝えたいメッセージを考え、書く。 たとえば、 「高校時代にケンカ別れして以来、 口を聞いていない親友に謝りたい」とか、 「進路に悩み、自信を失った弟を元気づけたい」とか、 「大事に思っているのに、 日ごろ、ぞんざいな態度をとってしまうおばあちゃんに、 大切だよと伝えたい」などだ。 私は、経験上、このステージが最も難しいと思う。 「自分と通じる」のは、 たしかに、日ごろお留守になりがちだけど、 とどのつまり、「自分」のことは、だれでも大切だし、 よく知っているので、考えやすい。 「社会と通じる」も、 情報社会の申し子のような学生たちは、 知識も幅広くあり、ボランティアなどの社会活動も、 やっており、イメージしやすい。 しかし、「一人の相手」に何か伝えようとするとき、 自分の言いたいことだけを言い放ったり、 自分の都合に合わせて相手をみたり、あげく、 自己投影で相手を見る、 ということにもなりやすい。 そこで、今回の集中講義では、いつも以上に、 「相手理解」ということを徹底してやってもらった。 いつものように、2人1組のインタビュー形式で、 伝えたい「相手」のことを、 徹底的に問い、引き出し、考えるワークを やってもらったうえに、 その相手の、人格・ひととなりを、 相手のことをまったく知らない第三者に、 自分の書いた文章だけで伝え、 生き生きした人物像が伝わってくるかどうか、 感想を言い合ったり、 伝えたい相手の、 過去、現在、未来の年表をつくってもらったり、 つまり、「お父さん」に伝えたいなら伝えたいで、 お父さんは、過去にどんな経験をしてきたか、 現在、どんな社会的関わりの、どんな状況にいるか、 将来、お父さんはどうなっていくか、 それぞれに、文章化したうえで、 やはり、第三者に読んでもらって、 その流れ、つまり「お父さんという人の文脈」を 理解したり、 たぶん、多くの学生にとって、 自分じゃない人間を、これほど考え、文章化し、 理解しようとしたのは初めての経験で、 へとへとになった人もいたと思うのだが、 学生たちは、粘り強く、真剣に取り組んだ。 相手理解を文章化している間、 学生たちは、雑談はおろか、物音ひとつ立てずに 集中した。 一人の学生が、一人の相手を思う。 その無音の空間で、 私も、知らず知らずに、いま伝えたい相手である 「おかん」のことを考えていた。 おかんは過去にどうしていたか? 仕事柄父が不在のなか、 たった一人で、幼い私と姉の、子育てに奔走する、 おかんの姿がまざまざと目に浮かび、 なきそうになった。 真摯にワークに取り組む学生たち一人ひとりの心も、 たったいま、そんな思いが去来していると思うと、 また胸がつまった。 今回ひとつだけ、他大学でやったことのない ワークを学生に課した。それは、 「相手になって、自分に話しかける」 というワークだ。 つまり、伝えたい相手が「おとうさん」なら、 お父さんに成り代わって、 自分に話しかける。 方法は、簡単だ。 たとえば、私の名前が「ズーニー」、 伝えたい相手は、「お母さん」」だとする。 白い紙に「ズーニー」と書く。 ペアの学生に、 ズーニーと書いた紙を渡し、それで紙で顔を隠してもらい、 ただじっと黙って座っていてもらう。 あとは、自分が「お母さん」になったつもりで、 ズーニーに向かい、 何が言えるか、何を言いたいか? 浮かんでくる想いを言葉にして話しかける。 学生たちは、それぞれ、 伝えたい相手になって、自分自身を見た。 「お父さん」になった学生もいたし、 「高校時代の恩師」になった学生もいた。 「彼氏」になった学生もいれば、 「親友」になった学生もいた。 半日かけて、相手の年表をつくり、 相手の人となりを文章化し、考え、理解した上で、 たぶん、生まれてはじめて、 他者になって、自分を見た。 他者になって自分を見る。 私はただそれだけでも充分気づきはあると思い、 多くを語らなくてもいいと、学生に言ったが、 意外に学生たちは、 自分に向かって言葉を発していた。 ぽつり、ぽつり、の学生もいれば、 制限時間いっぱい考えて、最後に一言の学生もいた。 けれど、制限時間いっぱい、ずっと、 自分に向かって、とうとうと語りかけていた学生もいた。 そういうふうにして、丸一日、 相手について、考えに考え、書きに書いた文章を、 その日の最後に、ぎゅーっと凝縮して、 縮めて、縮めて、ほぼ一文に凝縮したメッセージを 書き上げてもらった。 広告のコピーライターが、 思いに思い、考えに考え、たった一行を書き上げるが、 それに等しい苦労で、学生は書いた。 その日の最後には、 想いと汗の結晶のような「一行」を、 54名の学生全員に、連続して読み上げてもらった。 もはや、ありきたりな感謝や、 自分の都合だけの謝罪など、一人もいなかった。 たった一行に、 相手が見えた、学生自身がいた、想いがつまっていた。 54名分の「相手への想い」が伝わってきて、 胸がいっぱいになった。 自分以外の「一人の他者」を理解する大変さ、 それを身をもって知った学生が、 「一人の他者」への理解の苦労を忘れず、 それをそのまま、仕事を通して関わる人々や、社会へ 拡げていったこと、それが、 自分らしく社会的説得力ある表現につながったと私は思う。 |
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2011-09-28-WED
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