YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson559
  知の栄養、何から採っているか?



「知」も、おなかがすくとしたら、
日ごろ自分は、何で栄養を採っているか?

先週の読者のすばらしいおたよりを読みながら、
再認識させられたのは、

「考えずに採った栄養は、考えずに使ってしまう」

ということだ。
先週、グラフィックデザイナーをしている読者が
こういっていたが、

「切実に加工品をむさぼっています。
 なぜならクライアントからの短い納期、
 少ない予算の要求の中で、
 ベストなものを作ろうと考えれば、
 加工品から栄養を取り、
 素早く何かを生み出していく以外、
 現実的には難しいからです。
 加工品ばかりを基に仕事をしていると
 これはかなり疲れます。
 疲弊し、やる気はどんどん無くなります。」
(読者 竜さんのおたよりから抜粋)


かつて編集長をしていた私は、
「もー! わかる! わかる!」と痛く共感した。

「2次情報よりも、1次情報を」

私も、メディアがもてはやしたものの2番煎じでなく
まだメディアが光をあてていない独自の情報を
をモットーに編集長をしていた。

たとえば、「国際問題」で、高校生向けに特集を組むとき、

まだ世間にほとんど知られていない先生を
経験とカンと足で、新規開拓してきて、
あがった原稿がとてもおもしろく、
かつてない大切な視点を提供できるとき、
疲れもふっとぶ想いで、仕事がめちゃめちゃ面白い。

ところが、

スケジュールがタイト、テーマに疎い場合、
加工品に頼らざるを得ないときがある。
たとえば、「国際問題」で、高校生向けに特集を組むとき、

国際問題のムックを何冊も集めてくるのだ。

そこには、当代きっての国際問題のスペシャリストが
ずらーっと並んでいる。

プロフィールやインタビュー、執筆した記事も
コンパクトにまとまっている。

なかには、国際問題の先生をランキングしてくれた
ムックまでアリ、

加工品というか、完全調理済みというか、
これはもう、「カタログ」だ。

ムックを使えば、さして苦労せず、はずさず、
先生を選べる。

でも、こういう仕事のやり方を続けていると、
確実に疲弊する。

生のものから1次情報を見つけ出すより、
はるかに楽をしているのに、なぜだろう?

考える作業をショートカットした分、
考える筋肉が弱るからだ。

つづけばクリエイティブの死。

「生」のものから栄養を採ろうとすれば、
「考える力」がいる。

ムックを作る側は、国際問題のスペシャリストを
どこからどう集めてくるかを考え、
集まった情報をどう取捨選択するかを考え、
ランキングする場合は悩んで考え抜いただろう。

その考える工程をすべてすっ飛ばせば、
当然、考える力は弱る。

ほぼ日の読者はほんとうに質が高く、
先週紹介したように、

「テーマについて自分でここまで考えた。」

という経験からくる自分の考えを送ってくれる。
そんな中でもごく稀に、

私の書いたものを、
上から目線でけなすだけ、
というおたよりも、あるにはある。
12年もやっていると、
指で数えられるほどに少ないが、ある。

そういう人に必ず共通しているのは、
エライ先生の引用か、エライ先生の名前を出すか、
エライ先生のURLが載っていることだ。

「おまえまちがっているぞ!
 この先生の書いたものを読め!」と、

そこには自分自身の経験・考えはそえられてないし、
エライ先生の考えの咀嚼も解釈も
そえられていない。

震災のときも、
エライ先生のURLを丸投げし、ふりかざして、
他人を責め立てるような文章を見た。

せめて批判くらい、
自分の畑から生えた言葉ですればいいのに、

それにしても、こういう人の揺るぎない自信は
いったいどこからくるのか?

同じ反論でも、読者自身の経験から、
「私はこう考える」と書いているものは、
すがすがしいし、
決して上から目線にはならない。

先週の読者のおたよりを思い出す。
これもすごくいいおたよりだった。


書き手の「生」の言葉を、
自分自身がを腐らせてしまうときがあります。

それは、書き手が、
いいボール=「問い」を投げてくれるにも関わらず、
そのボールを「答え」にしてしまうときです。

本来ならば、そこから何かを感じ、もう一度考えたり、
言葉を反芻したりして、
少しずつ消化していくことが良いのだと思います。
それが書き手の願いでもある‥‥かもしれません。

でも、書き手の言葉(考え)良いなぁ、と共鳴した瞬間に、
「感じさせる何か」に目をつむり、
いいボール(=問い)に添えられた
「私はこう考えたよ」という筆者の考えだけを貪る。

うろ覚えなのですが、
ある食中毒事件で、ほとんど噛まずに食べた人は
残念ながら食中毒になってしまったのですが、
よく噛んで食べた人は大丈夫だった、
という話を聞いたことがあります。

これは、食べものに限らず、
「言葉」「考え」「表現」でも同じだな、と思いました。
(読者asa-kichiさんのメールから抜粋)



くだものなど生の食べ物には、
酵素が含まれていて、
体内で消化などを助けて働いてくれる。

そんなふうに食べた後、体内で、
生きて働く知を求めて、
人は本などを読もうとするのではないか?

自分が「考える」ときに、働いてくれる栄養。

けれど、URL丸投げの人にとって、
こういう言い方は悪いけれども、
その文章は、思考を止める引き金になっている。

「考えずに採った栄養は、考えずに使ってしまう」

「おまえまちがっているぞ!
 この先生の書いたこの記事を読め!」
というとき、

その本を書いたエライ先生のほうは、
本を書くにあたって、
ゆらぎがあったり、葛藤があったり、
そこを考えて、
現在の自己ベストの結論という形で、
文章にしている。

一方、読む側に考える力がないと、
書く前段階の、揺らぎや葛藤を経験していない分、
筆者より強く、その答えを絶対視してしまう。

絶対と思い丸呑みするから、
体内にはいったとき、揺らぎをとめ、
思考停止をおこす。

こうなると、先週の読者の「水波さん」が
言っていたように、
生のものに触れても、加工品のようにしか
みることができなくなる。


旅行に行って、その感想を求められても、
〇〇に行って、△△を食べて、綺麗だった、と
旅行のパンフレットに書いてあるような
ことしか言えない。

一方で、生のものを話す人は生き生きしている。
〇〇に行ったけど、実はこんな見方があって、
私はココに感動したっていう綺麗に着飾った話ではなく、
自系列もばらばらで言葉もぐちゃぐちゃだけど、
その体験をダイナミックに伝える人。
(読者 水波さんのメールから抜粋)



わたし自身本を書くが、
自分が書いた本であれば、かならず、
その一行を書くために、揺らいだ経験や葛藤、
振り落とさなければいけなかった部分が見える。

だから、たとえ会心の本が書けたとしても、
謙虚にならざるをえない。
その一部をふりかざして、人を責め立てよう
なんて気には決してなれないものだ。

考えて書いた言葉だから、
やっぱり考えて使うようになる。

グラフィックデザイナーの読者、竜さんが、
このように言っていたが、

「時代の要求はあまりにスピーディー。
 加工品なしでは、生きていけそうにない。
 現実的には身体に悪いと知りつつ加工品を取りながら、
 ここぞというときには生ものからも栄養を取る、
 そんなやり方で、タフに生きていくしかない」


グラフィックデザイナーで、日常的に、
考えるということをしているからこそ、
必要悪と知って加工品を採りつつも、
それにやられてしまわず、
いざというとき、先週の投稿のように、
クリエイティブな意見を出せるのだと思う。

このコラムの読者たちも、
「考える」ことを日常的にやっているから、

考えて、深く栄養を採り込み、
考えて、自分らしくアウトプットできるのだ。

知の栄養、何から採っているか?

私はやはり、実体験や経験、
生のものから採っていきたい。

体内に入って揺らぎを止めず、
揺らぎが揺らぎを生んで、何かを生み出す力になる
知の栄養、
考えるために、生きて働く栄養を採り続けたい。

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2011-10-12-WED
YAMADA
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