YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson589  作品のおとうさん2


「作者は好きだが、作品は好きになれない」

という現象を考えるとき、
なぜかセットで私に浮かぶのは、

「音楽は愛しているが、
 これといってファンのミュージシャンはいない。」

というような存在だ。
まず読者メールをお読みください。


<ファンという感覚になじめない>

「作者は好きなのに、作品は好きになれない」
「作品は好きなのに、
 つくった人間そのものは好きになれない」

すごくよく分かります。
ここ3〜4年の間、私自身強く感じていたことでした。
というのも、自分は昔から

「ファン」という感覚に馴染めずにいます。

好きな作家や音楽家、俳優など、
好きな作り手たちは多くいるんですが、

彼らが生み出した作品すべてをチェックするとか、
ライブやイベントに行くとか、
今だとブログやツイッターをチェックする
ということを私はほとんどしません。

「この作家はここがいいんだ」
「このアーティストの魅力はこういうところにある」
という根本の魅力や評価を手に
作品を渡り歩く私にとって、

それらを強固にしてくれるものだけあればいいので、
曖昧にしてしまうものは必要ないのです。
(Yuri 27歳の女です。)


<あらわされないままのもの>

今回の話は
「お母さんは好きだけど、
 お母さんの料理は、ちょっと、、、。」
に似ている。

ここまでは純粋に、自分の理想の味じゃなかった
ってことだと思う。

ただし、ここで私が気になるのは、
同じ映像を60回もみたズーニーさんは、
そのアーティストが何を「意図」して創作しているのか
悟ってしまったのではないか、
ということ。

けれどもそれが、
「あらわされないまま」でいるところに、
葛藤を感じるのでは?
(えいみー・ほーりー・はいつ)



私の身近に、
「サッカーをこよなく愛しているが、
 特定のチームとか選手のファンではない。」
という人がいる。

サッカーにくわしく、
どんな話題をふられても応えられるので、

たとえば、
居酒屋などで、
ふいにサッカー談義になったとき、

お店の人からも、
まわりのお客さんからも、
外国人からも、どんな国の人からも、
たちまち感心・信頼されてつながっていける。

そんなとき必ず聞かれるのが、

「どこのチームのファンか?」

しかし、もう何十年も決まって、
「ない」と答えつづけている。

選手のサインもほしがらない。
有名チームのユニフォームなどのグッズも買わない。

特定のチームとか選手とか、
そういうこととは、まったく違う次元で
サッカーを愛している。

また、若い女性で、
やはり、特定のミュージシャンとか、
ジャンルとかを越えた次元で、
「音楽」そのものを、
ライフワークとして愛している人が身近にいる。

音楽の話といえば、
「好きなミュージシャンはだれか?」
となり、共通すればもりあがるが、
あわなければそれまでということも多いなかで、

彼女は、
私がミーハーな話をふっても、
おじさまがジャズの話をふっても、
それが音楽の話であれば、
かならず興味を発見し、
話をつないでくれる。

2人に共通しているのは、
「好きか・嫌いか」で見ていないこと。

好き・嫌いで見ないからこそ、
消耗することなく、
ひろく、あまねく、大量の、サッカーなり音楽を、
取り込み、理解し、たのしみ続けられるのではないか。

こうなると、
おもしろくない試合やライブにさえ、
なにかサッカー的関心や、音楽的興味を見出し、
おもしろがれる余裕が出てくる。

私はミーハーだ。

でも、作品が好きになれないアーティストに
12年興味を持ち続けた理由をさぐるとき、
ちょっとだけ、
2人のサッカー愛・音楽愛に通ずるものを感じる。

すなわち、「好き・嫌い」を越えた尺度で見る。

私の場合、
それはたぶん、

「表現とその人の一致」だ。

企業で編集者として
高校生の文章表現にたずさわって、

そこを辞めて、
こんどは自分自身が表現する側に
まわった、ちょうど分岐点で、
例のアーティストに出逢った。

その時期は、
それまでの好き・嫌い、合う合わないという
ファンの視点から、

「作者が、もっとも表現したいものを
 表現しきれているか?」

ということに少しだけ目がいくようになった時期だ。
文章であれば、
自分とは価値観が違う人でも、
その人の根底にある想いと言葉が
ぴたっと一致しているとき、
えもいわれぬ解放を感じる。

逆に、主張にも賛同でき、いくら文章がうまくても、
この人の本当に書きたいものは
まだほかにあるのではないか、
とおもうとき、もやもや未消化感が残る。

素人の本気が、
ときに大作家が力六割で書いたものより、
人の心を揺さぶるのはそのせいだ。

私は、文章よりも生のもの、
人間であれば、生のその人間にあったり、
動きや表情、声色からのほうが、
その人の深い内面をくみ取れる。

文章の仕事をしているのに
だめじゃないかと言われそうだが、

まず言葉でないからこそ、
その人物の深い想い、
とくに言葉を自由にあやつれない若者たちの、
表現したいものを感じ取って、
言葉にしてひっぱりだす産婆的な仕事ができる
のだと思う。

「その人のもっとも表現したい想いが
 出し切れているかどうか」

という視点で、文章でも、音楽でも、映像でも
観ていくと、好き嫌い、感性が合う合わないを越えて、
解放を得たり、つながったりすることができる。

一方、表現しきれていない作品に出逢っても、
それはそれで、書ききれなかったその人の想い
表現しきれたなら広がるであろう世界に思いをはせ、
別の形で興味を感じることができる。

60回も同じ番組を観たことに象徴されるように、
その人間からわきでてくるものを、
繰り返し感じ取り、理解し、受け取っていた私が、
その根本にある表現したい何かを、
わかるまではいかずとも、感じとり、
それが、表現されないままというところに、
尽きない興味と疎外感との両方を感じている、
という読者の考察には、納得する部分が大きい。

作家が好きでも作品は好きになれない、
あるいは、その逆、という現象は、

単純に好き・嫌いを越えた、
自分の価値軸を見せてくれるものなのかもしれない。

つくり手と作品のギャップを感じるとき、
そこに、あなたならではならではの、
ものを見る尺度がある。

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2012-05-30-WED
YAMADA
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