おとなの小論文教室。 感じる・考える・伝わる! |
Lesson605 − 2.なぜか品のある人 先週の「人の品」には、 思いもかけず、とてもたくさんの反響をいただいた。 まず、この1通をお読みください。 <降りる降りないは紙一重> 「人の品」、 読んで浮かんだのは、 大学生の頃の自分でした。 当時、どうしてもお金が必要だった。 家賃、生活費、毎月のローン・・・・ ローンは、田舎から一人出てきて、 母親からの自由と自立を得た代償。 親には絶対頼りたくなかった。 家賃は同棲していた彼と半分。 それが理由で彼と別れられない生活が嫌だった。 自分の力で「合法的に」最大限お金を効率的に 稼ぐにはどうすれば良いか。 ただ、それだけを考えた。 でも、飲食店でのバイトは続かない。 じゃあ、塾の講師と思ってしたけど、 続けたいとも思えず終了。 才能があるわけでもない。 特技があるわけでもない。 資格を持っているわけでもない。 私には何もなかった。 たかだか二十歳をすぎた小娘の私にあったのは 「ワタシ」だけ。 だから私は「カラダ」で稼ごうと思った。 (水商売とか風俗とか、ということです) 別に「カラダ」を使って働きたいわけではなかったけど、 街を歩けばスカウトが声をかけてくる。 自分にできるのはそれくらいなのか? 自分のカラダで稼いで何が悪い? 私の「カラダ」で、「自分で」稼いだお金なの。 誰に何も言われる筋合いはない。 法に触れることをするわけでもない。 世の中に商売として成立しているんだから。 受容と供給の関係でしょ? って思っていた。 どれだけの男が自分の上を通り過ぎようと、 別になんとも思わない。 どんなに体を受け渡そうと、私の心は絶対に渡さない。 私の魂は絶対に汚れないし、誰も私を穢すことはできない。 あれは自分に言い聞かせたかっただけなのかもしれない。 何があっても「私はわたしのまま」と。 私はすねていたところがあって。 寂しいくせに寂しいといえず、 人と深く交わりたいのに、そうできず。 自分が本当に欲しいものが何かさえも気付いていなかった。 なんであんなに自分をあえて傷つけるようなことを しようとしたのかなと思う。 誰かが私のことを責めたわけでもないのに、 心のどこかで世間に噛み付いていた。 「私の何がわかるわけ? 何もわからないのに、 カラダで稼いだだけで勝手に決め付けないで。」 顔、カラダ、そんなもので判断して欲しくなかった。 私は「わたし」を見て欲しかった。 「わたし」の中身を。 そして、受け入れて欲しかった。 良いところも悪いところも全部ひっくるめての 私という人間を受け入れて欲しかったんだと。 私は自分の人生をかけて、 自分をためそうとした気がします。 何があっても私は「わたし」でいられるのか。 何があっても、「わたし」は受け入れられるのか。 ズーニーさんのお友達が 自分に似つかわしくない水商売に手を出した気持ちも わからなくはない。 もうどうでも良いやって何度も思ったことがあるから。 今でも嫌になることはたくさんある。 その一方で、ズーニーさんの講座の受講生の気持ちも 分かる。 私は自分の置かれた環境で 自分の人生を決められるのが嫌だった。 「自分の人生は自分で決める、自分で創る」 だから、もがいた。 私が自分の人生に執着したのは、 そこが崩れたら自分が本当になくなりそうだ と思ったからです。 どうでも良いって気持ちと、 自分の人生手放したくないという気持ち、 どっちも行き来しながら、 ギリギリのところでしがみついてきたのが 私なんだろうと思います。 そう考えると、 自分の人生を降りる、降りないっていうのは、 紙一重なんじゃないかな。 私は「カラダ」で稼ぐことはしなくて済みました。 「このバイトがダメだったらしょうがない」 と思って受けて、受かったからです。 バイト先での説明が終わった後に、 私は一人、質問したそうです。 バイトの内容は「営業」だったので、 女子が質問してきたことに 「この子は根性があるな」と思って、 採用してくれたそうです。 もし質問していなかったら、採用はなかったそうです。 何を質問したかなんて一切覚えていないけど、 全体の説明会だけで個人面接も何もなかったから、 何か印象に残しておきたくて 質問しに行ったのだろうと思います。 何せ私は「崖っぷち」だったわけですから。 (メイ) 「降りるも降りないも紙一重」 というところに深く共鳴した。 私自身、こうして書きつづけていられるのは、 強い人間だからではなく、 「偶然の一通」に支えられている。 40歳近くなって書く生活にはいり、 あまりの孤独さと、なにより自分の能力のはかなさに 最初の3年がくるまでは、 いつまでつづくか? もうここでとうとうつづかないか? という危機が何度か訪れた。 でも不思議なもので、 もうだめだ。 いよいよ自分の力の最後の一滴がなくなるというときに、 決まって1通、 読者から、腹にしみわたるメールがきた。 とくに私を励まそうとかそういうメールでなく、 私の書いたものが面白かった、役立ったと、 ただしみじみと実感をもって綴られていた。 たった1通に、ときにはつっぷして パソコンの前で何分も泣いた。 ひとしきり泣いた後、私は、奮い立つもなにも、 もう次の原稿を書くべくパソコンに向かっていた。 そうして最初の3年間は、 どうしようもなくなったときになぜか必ず届く 「偶然の1通」に支えられて、 首の皮一枚つながってきた実感がある。 人の品をわけるものも、 実は、そうしたわずかな差の集積かもしれない。 読者のおたよりを見てみよう。 <よく品があると言われます> よく、「品がある」と言われます。 自分に品がある、とは思ってもみなくて、 初めて言われた高校の時にはとても驚きました。 しかし、そこそこ貧乏な家で生まれ育ちました。 もしかすると、他の人達よりも 諦めなくてはいけないことが たくさんあったのかもしれません。 少ない選択肢の中から、 自分にとっても親にとっても最良の道を選んで来ました。 貧乏だったことは恥ずかしくありません。 進学させてくれた両親が誇りです。 (みけん41) <母は食卓にお金を置いた> 3年前、77歳で逝った母、 「人の品」を読み浮かんだのは、 その母の顔だ。 母は貧しい農家に生まれ、 農家の長男に嫁ぎ封建的な田舎で、 膠原病という病を抱えながらも、 土にまみれ苦労の一生を終えた。 とても仲の良かった父を 53歳の時突然心筋梗塞で亡くし、 その後姑を看取り やれやれと思っていたころには、 自分の体がどうにもならなくなっていたと 少しさみしそうに話していた。 不登校の息子に限りなくお金を注ぎ込む同居の兄夫婦に 有り金をとられ、すっからかんになり その挙句何の面倒も見てもらえず、 それでも自分で何とか動けるうちは迷惑はかけまいと 1人で頑張っていた。 けれども、いよいよ体が動かなくなると母は覚悟を決め、 長年住み慣れた兄夫婦のもとから 次女である私の家に越してきた。 そしてその1年後に逝った。 母は覚悟を決めていたのだと思う。 そこに品があった。 命の終え方を教えてくれた。 私はもちろん、夫、そして高校生だった私の2人の娘にも。 ある時、 自分の食べるお米を買う手配をしたから、 実家に連れて行ってくれというので連れて行った。 ちょうど兄夫婦はおらず、 母は1万円を封筒に入れ食卓の上に置いた。 私はそれを見て 「有り金全部巻き上げられたのだから、 お金なんておいて行かなくてもいいじゃない」 と言った。 母は「それとこれとは話が別だ。」と言った。 亡くなる半年ほど前の七夕に短冊を渡したら、 「皆さんの愛、ありがとう」と書いた。 それはどうしても捨てられず、 毎年七夕になると我が家の笹に飾られている。 そんな母の死に顔は高貴で綺麗だった。 (空が好き) <夫にはなんか品がある> 「自分を生きることをあきらめない人は品がある」、 すごく共感しました。 夫のことを思いました。 夫とは、大学で出会ったのですが、 夫は、親からの仕送り0で、 夜は居酒屋や家庭教師で生活費を稼ぎ、 昼は授業にでて頑張っていました。 また、柔道部でもあり、汗を流していました。 国立大ということもあり、授業料免除、入学料免除でした。 いつも、洋服は同じものを着てばかりでしたが、 なんか、品がある真紅の色が似あうひとでした。 縁があり、同じ研究室となり、 いつも二人で卒論を書きあげ、切磋琢磨しました。 そして、月日が流れ、就職し、結婚しました。 夫は、口蓋列の障害で歯のかみ合わせが悪く、 結婚後も時折歯医者へ行き、 保険がきかない高額な治療費を払いました。 また、就職後は、両親へ仕送りせねばならず、 そのため、貧しい新婚生活でした。 しかし、夫をみてるとなぜか、 品がある色の洋服が似合うので、 よいものを一点だけたまに買いました。 私が夫の服を選ぶ第一条件が品です。 「人の品」を読んで、 そうだ夫は、かなり苦労したけれど、 自分を生きることをあきらめなかったから、 品がある服が似合うんだと再確認しました。 そう思うとただ涙がでました。 こんな素敵な人に出会えてよかったと思いました。 今、夫は、特別支援学校の教師をしています。 体の弱い子供たちと日々、生活し、勉強を教えています。 品のある夫のそばで 私も「自分を生きて品あるようになりたい」と思います。 (福島県 ブーちゃん) <人の見ていないところで> 私は母を思いました。 私の実家は自営業をしており、 比較的裕福で近所の人たちから羨ましがられていました。 誰の目からみても幸せな一家であったと思います。 しかし、実情はたくさんの嫌なことがあり、 その中で私の母は大変な苦労をしていました。 嫁を人と思わない姑、嫉妬心の強い夫、 お金の無心をしてくる親戚たち。 親の反対を押し切って結婚をした為、 実家にも頼ることができなかった母は毎日泣いていました。 でも、私の母は輝いていました。 母が私の学校の授業参観などにくると 級友たちから歓声が上がりました。 母のファンクラブができるほど人気者でした。 毎日のように泣いていて、 心身がボロボロで 子供を守り育てるのに必死になっているのに、 まるで幸せの象徴のように思われていたのだから、 不思議です。 「誰からも幸せに見られたい」 これは母の口癖でした。 あの時の母の神々しいまでの輝きは、 この気負いだったのだと思います。 「品がある人」というと、 恵まれた環境で育った、少し浮世離れした 雲の上の人のような印象があります。 でも実は本当に品のある人というのは、 人の見ていないところでたくさんの涙を流して、 それを無駄にせずに、 自分の輝きに変えていった人のことをいうのだと思います。 (史乃) 紙一枚の選択の差。 貧乏で諦めねばならないことが多く、 そうとうに限られた選択肢のなにを選ぶかというときに。 人のいない家で、 食卓に封筒に入れた1万円札を置いたときに。 同じ洋服ばかり来ていても、 大学も部活もやろうとしたときに。 人に不幸を見せたくないという美意識に従ったときに。 ささやかな選択の瞬間、その集積が、 「自分を生きる」になっていくのではないだろうか。 最後にこのおたよりを紹介して今日はおわりたい。 <小さな前傾姿勢> あまりのことに抱えきれず、 人に弱音を吐きました。 吐き出してほっとしたら、 次の瞬間に、砂に足をとられるように 自分が弱くなっていくのです。 あぁ間違いだったのだと思いました。 自分の中にとどめておくべきだったと考えると、 ますます足が立たなくなりました。 「なけなしを差し出す」と「人の品」を読みました。 閉まりかけた心に、すっと風が入り、 大きな息ができました。 じんわりと足に力が入ってきました。 今まさに自分を乗っ取ろうとしている、 弱さの存在に気づきました。 間違っていたのは人に伝えたことではなく、 弱さに自分を明け渡そうとしていたことだと分かりました。 あっという間に足を取られ、 あっという間に両手まで取られそうになっていました。 その怖さは知っていたし、 そうならないよう重々注意してきたはずでしたが、 弱さはこの絶好の機会を見逃さず、 「こっちにおいでよ」「一緒に嘆こうよ」と私に囁き、 隙を突いてすり寄ってきました。 強さとは、品とは、美しさとは、 コラムにあった彼女の様に 自分の弱さに立ち向かっていくことなのだと思います。 彼女の小さな前傾姿勢が目に浮かびます。 とても勇気をもらいました。 (Sarah) |
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2012-09-26-WED
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