YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson627
  とらわれないで人と接する


とらわれないで、人に向き合いたいなあ。

この人は過去に自分を傷つけた人だとか、
恩があるとか、貸しがあるとか、
好きだったとか、嫌いだったとか、

いま自分を慕ってくれているとか、
自分を嫌っているとか、

過去の経緯とか、感情とか、
大事なんだろうけど、

そこにとらわれて向き合っても、
自分と相手の間にある可能性のふり幅を
狭めるだけのように思う。

感情は豊かに、ありのままに、
でも、ふるまいはステレオタイプになるのが悔しい。

とらわれないで、
自由に、初めて会うかのように、人に接することができたら
面白いのになあ、と私は思う。

そのために、どうしたらいいんだろうか?

きょうは、たくさんいただいている読者のおたよりから、
好き嫌いにとらわれないで、より自由に人に接する道を、
探ってみたい。


<行動は感情にとらわれない>

嫌いと向き合うシリーズ、とても面白く、
とくに興味深かったのは、この視点です。

「嫌いな相手、嫌われている相手に、
 人道的にどう接してゆくか?」

私たちは、感情と行動を一致させなければいけない
ような気がしている。

相手を嫌いなら、悪い態度を取るのが当たり前。
好きなら、優しくするのが当たり前。

でも、感情と行動を、一旦、別物として切り離してみると

この人は嫌い、でも最低限の礼儀は尽くそう
この人が大好き、でも普通の態度で接しよう

心の在り方がずいぶん自由になると思います。

「あ〜この人、本当に私のこと嫌ってるな〜」
と相手をユーモアをもって見つめられるくらいになると、
面白く生きられるのかな。
(扉)


<好きも嫌いも変わりうるものです>

人を治療する仕事をしています。
私のことを好きになってくれる患者さんもいれば、
嫌いになる患者さんもいます。

患者さんと関係が密なだけに、
嫌われるのは全否定されるようなダメージを受けます。

私の側からも正直好き嫌いはあります。

出来る限りの治療をこころがけ、
でも嫌いな患者さんとのやりとりは、
ストレスがたまるものです。

ただ、嫌いな患者さんとの関係も、
ずっと同じではありません。

技術が向上して、評価が変わることもありますし、
そうでなくとも、いつの間にか
関係が変わってくることもあります。

おおかた、長く仕事を続けていくうち、
その場での自分のおり方が変わるのに伴う
変化なのでしょう。

一方で、好きな患者さんとの関係も、
ずっと同じではありません。

うまく言っている関係にあぐらをかいていると、
治療がマンネリになって飽きられたり、
ほかにもっとよい治療が出来る人がいれば、
今の関係は色あせます。

好きも嫌いも変わりうるものです。

嫌いだからといって、これからもそうとは限らないし、
好きだからといって、そこに安住すると
しっぺ返しをくうこともあります。

楽なことではないですが、
今の関係や好き嫌いがずっと同じではないと思っていると、
自分がもっと自由になれるように思うのです。
(たまふろ)


<ひとつ絆があれば>

私は、他人から向けられる負の感情に驚くほど鈍感で、
「自分が嫌われている」という事実に
気づくのはすごく遅いです。

小学校や中学校で
自分がいじめられて嫌われていたということに、
大分あとになって気付いたりしました。

それまで本気で自分は誰からも好かれている
少なくとも嫌われてはいない、と考えていました。

もちろん今も嫌われるのは好きじゃないけど、
こんなに人類いるんだもの、
すべての人に好かれるわけないよねと思って
納得しちゃいます。

それは自分に「家族」という、
絶対的に愛し愛してくれる人たちがいるので
そう考えられるのかと。

嫌いでもいいよ、でも私を愛してくれている人はいるし、
と彼らの愛を信じていられるので、
自分を否定された気持ちにはあまりなりません。

もともと、
自分は根っから否定されるほど悪い人ではないし、
誰からも好かれる聖人じゃない(聖人を嫌いな人もいるし)
とわりきってしまっているのかもしれません。
(つえる)


<そこで手放すか、獲得してのりこえるか>

僕はあるタイプの女性が非常に苦手です。
今の職場はそのタイプの女性が非常に多くいます。

彼女たちの「声」が苦手で、
おそらく小学生のころから苦手でした。

生理的な反応に加えて、
成長するまでに失敗してきた後づけの理由も
加わっています。

苦手→うまくいかない→嫌いになる
→余計にうまくいかない、というループです。

今僕は、
「無理に好きにならない」
「ネガティブな感情があるのは素直に認める」
「その上で変えられるところは変えていく」
という意識でいます。

認めるようになったのは「嫌い」だけじゃなく、
嫉妬も含めたネガティブな感情を
自分が持ってることもです。

今の職場に入るときに「改めて頑張ろう!」と
意気込んでいただけに、
ここまでネガティブな感情に翻弄されたのは
ショックでした。

今の「嫌い」には僕自身の
(多分、埋めることのできる)欠点も由来してるので
そこはできる範囲で変えていきたい。

それでも、生理的な「苦手」までは簡単に変わらないので、

「仕方ない」とも思いつつ、
「変わるかもしれない」という希望も捨てたくない。

彼女たちとの「悪くないつきあい方」があるのではないか、
と思いながら働いています。
(Y.S.)


<嫌いを増やす思考法>

年末、あるきっかけから、友人Aと私の考え方が
決定的に違うことに気がつきました。

例えば、学校のクラス替えで

私がまず考えるのが、「みんなと友達になりたい」です。

クラスメートに平等に接していくのですが、
合う合わないがどうしてもあるわけだから、
友達候補がどんどん「減って」いきます。
いつも「なぜ嫌われるのか」を考え、
でもわからず、自信を無くしていきました。

Aは「この中から友達になれるのは、
よくて1人くらいだろう」と思うのだそうです。

だから、いつも距離をもってクラスメートに接して、
合いそうな人がいたら友達になれるよう近づいていく。
よって友達候補は「増えて」いく感じなんだそうです。

自分から「相手を選ぶ」と考えることに
ずっと違和感があり、
私は、いつも嫌われることを怖がって、
選ばれることだけを考えていました。

これから変わっていけるように感じます。
(ろこ38歳)



「生理的に嫌い」っていうのは、
生き物として拒否られている感じ。

私は、「ウニ」を思い出す。

こどものころ、たった一回食べて、ウニを嫌った。

味も栄養も素晴らしく、
食通たちから高い評価を受けるウニも、
一部のおこちゃまから、いわれなき、
全身拒否をされているのだ。
ウニにすればたまったもんじゃない。

私たちは、好きな人のどこがいいかと聞かれると、
「こういうモノの言い方が好き」
「こんなしぐさが好き」
ともっともらしくあげる。

だが、その言い方なり、しぐさなりを、そのまんま、
嫌いな人がやったらどうだろう?

好きも嫌いも、理不尽だ。

ところが私はいま、ウニが大好物だ。

苦手克服も、発想の転換も、
1ミリの努力もしていない、
二十代のある日、突然、

「あのとき、異常に嫌ったあの味を食べたい」

と思ったのだ。
案の定、食べてみると、体に染み入るおいしさだった。

「生理的に嫌い」っていうのは、
口で言えないほど、微細な、あるいは深いトラウマなどの
感覚が複数、複雑にからみあって形成されている。

それだけに、とりたてて、
これという努力はしていないのだが、
生きていくうちに、いろいろな感覚が育ったり、
ひらかれたり、つながったりして、

ある日突然、理不尽に、
好きになることもあるんじゃないか?

あまりにも楽観的に聞こえるかもしれないが、
たまふろさんや、Y.Sさんが言うように、
私はその可能性に対して、自分をひらいておきたいのだ。

視界から排除しない、というのかなあ。

「この人嫌いだなあ、けど挨拶だけは感じよくしよう」
とか、
「この人嫌いだなあ、けどチームに1人、
 混ざってても面白いんじゃないか」
とか、
「嫌いな人の作品も、ときには見て自分をおどかすか」
とか、
「ああ、やっぱり嫌いだ。でもそれが面白かったな」
とか、
いまの自分のキャパに応じて、
どっかなにか、ひらいておきたい。

そのうえで、つえるさんにとっての家族、
ろこさんのメールに出てくる友人Aさんの
「友だちになれる一人」のような、
好きでつながる絆をなにか1つ見つけて、
心に余裕を持つことで、間接的に、
嫌いへの寛容さを増すこともあると思う。

そうして嫌い嫌われる相手を、
ほどよい距離からチラ見していると、

ふいに、笑えるような、
なにかちょっと可愛げや、哀愁を感じるような瞬間がある。

そこが、とらわれない関係への入口ではないか、
そこはウニのように大人の味がするぞ、
と私は思う。

山田ズーニーさんへの激励や感想などは、
メールの表題に「山田ズーニーさんへ」と書いて、
postman@1101.comに送ってください。

2013-03-06-WED
YAMADA
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