YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson637
  うまく言葉にできない人のための自己表現術


口ベタだからと、自己表現を
諦めていないだろうか?

書いたり話したりに、強いニガテ意識がある人ほど、
逆に、「言葉にできさえすれば、わかってもらえる」と、
言葉に強い幻想もあるように思う。

だから、一大決心して、
自分の気持ちを言葉にして、だれかに伝え、
その人にわかってもらえないと、
以降、自己表現を閉ざしてしまう
というようなことも起きる。

いきなりハードルが高いのだ、

言葉という抽象度の高いもので、自分を表現することも、
他人に、自分をわかってもらうことも。

「もっと身近なところで楽しみながら、
 自己表現力を育ててみては」

きょうは、そんな提案だ。

20日前、私は「引っ越し」をした。

引っ越し前後、しばしば、
「ボーッ」としてしまう自分がいた。

これには自分でも「どうしたことか」と驚いた。

やることは鬼のようにある。
仕分け、荷づくり、ゴミ捨て、
運搬、荷解き、家具の配置、新居用の買い物‥‥、

なのに、

とっとと詰めるだけ、
ゴミ捨て場にさっさと捨てるだけ、
置くとこ決めて置くだけ、のようなシーンで、

段ボール箱を前に、10分、20分、
いやひどいときは、30分、40分‥‥小1時間も、
しゃべらず、動かず、身じろぎもせず、

「ボーッ」としてしまう自分がいるのだ。

どうした自分?
疲れたのか?
考えなきゃいけないことが多すぎて思考停止か?

かと思えば、人が変わったようにテキパキ動く自分!

とおもうと、また、「ボーッ」。

この繰り返し。

新居に移ってからも、
この「ボーッ」は何度かやってきた。

何度目かのひどい「ボーッ」があった翌朝、

目覚めたら、家具の配置がパッ! とひらめいていた。

限られたスペースに、
家具と物を配置しようとすると、
「これを置くと、あれが置けない」
「これとあれを置くと、人が通れない」
みたいなチグハグが起こる。
入居以来、はかどらなかった部屋のレイアウトが、

朝起きたら、まるでパズルが解けるように、
思いもよらぬ角度から、素敵なレイアウトが浮かんでいた。

「やったー!!!」

と歓んだ瞬間、気づいた。
引っ越し前後、私がボーッとしていたのは、
思考停止なんかじゃない、

「あれは、考えていたのだ!」

そして、わかった。

「引っ越しは、自己表現だ!」

どこに住みたいか?
どう暮らすか?
何を大事にするか?
何を捨てるか?

一時に集中して、自分の胸に問われまくり、
アウトプットしまくり!
しかも口で言うんじゃなく、
現実の街や、家具や配置や立体で、自分の想いを表現する。

表現とは、目に見えない想いを、カタチに表すこと。

「言葉」で表すか、
「家具や配置」で表すか、の違いはあるけど、
引っ越しも、見えない想いやアイデアを、
カタチに表すことに違いはない。

私が「ボーッ」としていたのは、
「なんか違う」
という現実を前に、立ちどまって「考えて」いたのだ。

たとえばゴミを捨てるシーン、

そのまま効率だけに流されていくと雑な捨て方になる。

「なんか違う‥‥」
「何が違う?」
「ならどうしたい?」

と無意識の部分で、自分は自分に問いかけていた。
ふだんは「言葉」で表現しているから、
「空間」や「行動」で表すのは勝手が違い、
「ボーッ」としてしまったのだけど、

「ボーッ」としてしまった後には、
必ず新しいアイデアや、やり方がひらめいた。

ゴミの捨て方で言えば、
私のこだわりは「美しいゴミ」にあった。

ずっと昔、自分のアパートから引っ越していった人が、
ひどいゴミの捨て方をして去っていった。
その後片付けを、大家のおばあさんがしていた。
それが原風景として残っている。

以来私には、
雑誌は大きさ高さをぴったりそろえて
きれいにヒモで結んで捨てたい。
ビンは洗ってキラキラ輝く状態にして捨てたい。
だれもがひと目で見て、
「わ、なんかきれい!」と思うようなゴミの出し方をしたい
という欲求がある。

非効率だし、
だれの1円のトクにもならないとわかっていても
自分が自分らしく、自分であるためにする行為、
それが「自己表現」だ。

実際、「はやく・ラクに」という価値基準を捨てて、
時間がかかっても、大変でも、
「美しいゴミ」という自分のこだわりを
カタチにしはじめたとたん、
イキイキと、テキパキと、
疲れ知らずでやれるから不思議だ。

「自己表現」だと気づいてから、
ゴミ捨ても、めんどうな家具の配置も、モノの収納も、
照明など必需品の買い出しも、楽しくなった。

自分の理想をカタチにする。

自分の部屋は、センスがよい必要はない、
統一がとれている必要も、ましてやおしゃれである必要も、
見栄えがよい必要もない。

毎日毎日目にする空間、
リクツではなく、目をやった瞬間、

「なんかいい」、と小さな実感があること。

「なんかちがう」、と感じる点を放置しないこと。

「ボーッ」としてしまうときは、
「なんか違う」のところで立ち止まっているときだ。

照明がなくて必要に迫られ、
「さっさと機能を調べて、ネットで価格を比較して、
 いちばん安いとこに注文するだけだ」
と自分をせかしながらも、ボーッ、としてしまった。

結果、自分は機能よりも、
目をやったときに、「なんかいい」と思えるデザインを
求めていることに、やっと自分で気がつけた。

探して探して、「これだ!」と思った照明は、
2か月半待ち、予算の倍。

さすがに躊躇したが、
ここで妥協すると、どんな照明をつけても、
「妥協しました」という自分の心根が透けて見える。
ここは、2か月半待つと決めた。

自己表現にはそれなりの労力や奮発も要る。

だからといって、
「高いもの買い」「センスの良いもの買い」に走るのも
自分としては違う。

自分に似つかわしくない高価なモノを飾り、
カタログのようなハイセンスな部屋にしたとしても、
「どうだ! これ、かっこいいだろう!」
という見栄を飾り、背伸びが見え透ける部屋になる。

表現には、表現したときの心根が表れる。

うまく部屋のアラを隠したつもりでも、
そこには「隠しました」という表現者の根本思想が
きっちりと表れてしまうのだ。

「かっこいい部屋にしてやろう」などと気負うと、
部屋はどんどん心と離れ、おかしなことになっていく。

これは文章と同じだ。

等身大の自分と離れ、壮大なテーマを選んでみても、
どんどんうわすべりの表現になっていくだけ。

どういう部屋に住みたいかは自分の心だけが知っている。
そこに忠実であること。

そんなふうに、なんども立ち止まりながら、
自分の想いを、小さく、コツコツと
物や配置や空間で表すことを積み重ねた結果、
目をやると、心がすーっと解放される、
そんな空間が新居に一つ、また一つ、増えていっている。

同時に、自分の想いに応じて、さっと動き、
空間にカタチとして表現できる筋肉も、
日々鍛えられている実感があり、気持ちいい。

口ベタな人も、
まずは、物言わぬ、自分の生活空間と
対話してみるのはどうだろう。

引っ越しや、模様替えなど当分しない、
という人も、

「なんかちがう」「なんかやだ」

なら、生活空間に、1つくらいあるのではないか。
「このゴミ箱の位置、なんかやだ」とか、
「この本の並べ方、なんかちがう」とか、
できるだけ些細なモノからがいい。

「なんかちがう」をへらし、「なんかいい」をふやす。

これが、口ベタな人も、いますぐ、
生活空間を使ってできる自己表現術だ。

想いをカタチに表す習慣は、
何より楽しく、言葉の自己表現への基礎になる
と私は考える。

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2013-05-22-WED
YAMADA
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