YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson644
 「誰かのせいで何かができない」と言わない自立


ここのところ、
社会人へのワークショップをたてつづけにやって、
「自立とはどういうことか」、
あらためて気づかされた。

ある女性(Aさん)は、
こどものころから、おかあさんが過干渉、
そのためやりたいことが自由にやれずに育ったという。

ここまでは、
近年、非常によく耳にする話だ。

「厳しい父親のせいで、
あるいは、過干渉の母親のせいで、
想いを表現しない人間に育ってしまった」と、
そう言う人は、
高校・大学生にも、社会人にも、とても多くいる。

だが、Aさんがそうした人々とちがっていたのは、
ここからだ、

「自分を語るうえで、母との関係は
決して小さくはない。
でも、母娘問題は、もういい!」

長年の確執を、キッパリ手放すように
Aさんは言い、さらにこう続けた。

「いい大人になった人間が、
“母親のせいで、自分が
自由にやりたいことがやれない”なんて、
言っている時点で、
自立できていないということ。

母娘問題はもういい!

それよりも、自分がいかに自由に、
やりたいことをやっていくかだ。」と。

実際、Aさんは、
専業主婦をするかたわら、NPOで仕事をしたり、
その日も、
「主婦が家を空けるとは…」という風潮が、
まだまだ、社会にも、家庭内にも根強くあるなかで、
どうにかやりくりし、家族をときふせ、
表現力を磨くためにワークショップに参加していた。

そんなAさんの生き方に改めて気づかされた。

「自立とは、
誰かのせいで何かができないと言わないこと。」

読者がああだから、こうだから、
だから自分は思うものが書けない、という
書き手がいたとしたら、
それは、読者から自立していない証拠だし、

会社が、ああだからこうだから、
だから自分はやりたい仕事ができない、という人は、
そう言っている限り、会社での自立は難しい。

文章教育を通して、
家庭に悩みがあったり、
親子関係に問題を抱えている人を
ものすごくたくさんみてきた。

虐待、育児放棄、親の借金、親の不倫、
両親が仮面夫婦、親の病気、親との死別…、

小学校時代に、もう、こども時代を強制終了され、
自立をよぎなくされた人もいれば、

学校を卒業しても、
社会人になっても、
こどもを持って自分が親になっても、まだ、
こども時代が終了していない人もいる。

いくつになれば、どうすれば、自立できるのか?
簡単に答えが出ない問題だけれど、

壮絶な親子問題を背負いながらも、
自立している人の文章には共通点がある。
それは、

「よい意味で、親子問題を解決しようとしない」ことだ。

これは意外と思う人が多いのではないだろうか?

「逆だろう、自立しているなら、
親に働きかけたり、話し合ったり、
親子で一緒に問題解決に努めるべきだ」と。

私自身、ドラマの影響か何か、
かなり長いこと、そう思っていた。

だが強い自立を感じる人の文章は、共通して、

いっこうに、親に働きかけようとか、
親を変えようとか、親と戦おうとしない。

親をどうこうしようとか、
親にどうこうしてもらおうとか、
親と向き合って、話し合って、
手を取り合って、親子でいっしょに問題を解決しよう、
という展開にはならないのだ。

逆に、問題解決への執着を、
早い段階で潔く手放している。

Aさんが、「母娘問題はもういい!」と言ったようにだ。

ある生徒はそれを、
「親は親、私は私だ! それでいい。」
と表現した。

「親子問題に軸足があるのではなく、
自分を生きることに軸足がある。」

あえて問題解決しようとしない勇気、
そこに自分の人生を生きる本気を感じるのだ。

逆に、「依存」が抜けきらない人の文章は、
ほとんどがこの論法だ。

1 自分の欠点をあげる

2 原因を探し、親子関係にあるとする

3 親の非・自分の非を、掘り下げ、反省する

4 親子関係と自分の欠点をのりこえる決意表明で終わる

一見、筋が通っているように見えるのだけど、
こういう論法で書かれた文章は、
なぜかもうひとつ、読む人に届かないし、
書いた本人も、すっきりしない。

「自分を生きることより、
親子問題解決に軸足がある」からだ。

いま、自分がつまずいている、
その原因を、自分以外の人や、
その人との関係に求めること、
それはいいことなんだろうか?

百歩譲って、100%それが原因だったとしても、

そこから一歩踏み出すには、
その人との関係の改善が必要なんだろうか?

親子問題に原因を求める人は、
逆にそこさえ解決されれば、
うまくいかない現実のもろもろが、
うまくいくようになる、というような期待もある。

だが、私が文章で読んできた限り、
多く、問題は解決しない。

親はそんなに簡単には変わってくれないし、
関係も、そんなに簡単には改善しない。

わかりあえないまま、
ときには子供に大きな負の遺産をおしつけたまま、
親が亡くなってしまうということも、
現実にはある。

仮に、絵に描いたように親子問題が解決したとしても、
「それはそれ」。
現実で自分がつまずいているもろもろの問題が、
いもづる式に解決されることはない、
という顛末もあるんじゃないか。

「自分の人生へ踏み出すには、
まず親子問題に決着をつけなければ!」

と思うのか、

「まず自分を生きる。
そのためには親子問題解決への執着を手放そう」

と思うのか。

正解はないし、
人や年齢や状況によってもちがうけど、
どちらがいいと一概にはおしつけられないのだけど、

私が自立を感じる人の文章は、
「まず自分を生きる」、そこに必死になり、

未成年の場合は、「勉強」をがんばり、
社会人の場合は、「仕事」をがんばり、
また、人生のパートナーを見つけたり、
自分の家族を持つことにも必死でがんばっている。

私自身が、「自立」しているつもりでも、
ときおり、ぎょっとするような「依頼心」が顔を出す。

親子関係だけでなく、
会社とか、人とか、いろいろな物事に対して、
自分が自立できているかを判断するときに、

「誰かのせいで自分が何かができない」と言っていないか?

誰かとの関係解決に、
必要以上に、とわられたり、こだわったり、
執着していないか?

と考えて、

「自分を生きる」にシフトしていきたい!


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2013-07-10-WED
YAMADA
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