YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson645
 「誰かのせいで何かができない」と言わない自立
   ー2.新しい問いを生きたい


先週のコラム「自立」には、
たくさんの反響をいただいた。

とても1回では紹介しきれないので、
何回かに分けてお伝えする。
まず、このおたよりから。


<意外で、勇気づけられた>

先週のコラムに書かれていた女性のお話、
ワークショップに参加して、生で聞いた者です。
私も、とても印象に残っています。

「40歳を過ぎて、母のせいでこんな風になってしまった、
 なんて言っていてはダメだろう」

という言葉を聞いたとき、なぜだか意外性を感じ、
そしてとても勇気づけられました。
(さやか)



そう、この「意外性」、
私は、ここ数年で何度か立ち会ってきた。

「親子関係」にずっとずっと苦しみ、考えてきた人が、
ふっ、と執着を手放し、前に進みだす瞬間。

どうも親子問題というものは、
親子で話し合って、関係を改善して問題解決を図るべき、
という先入観があるようだ。

社会にも、私自身にも。

私自身は、なぜそういう先入観をもっていたかというと、

「ある女優さんが、人生にゆきづまり、
 その原因を考えたときに、
 母親との関係にあると気づき、
 そこから母娘問題に向き合い、
 母親と協力してカウンセリングを受け、
 母娘関係を改善して立ち直った」

という一件が、
当時とても大きく取り上げられた。
そのイメージにとらわれていたようだ。

だがその先入観は、少なくとも、ここ数年、
教育現場で私がまのあたりにしている現実とはちがう。

もちろん、親に伝えて、通じて、和解した人もいる。

やっぱり感動的だ。

そういうケースは、理想だし、希少だからこそ、
私も、きっとドラマをつくる人も、出版をする人も、
つい、声高に伝えたくなる。でも、

「そういう人もいるけど、そうじゃない人もいる。」

問題は解決しない、親は変わらない、
親子問題が解消されないまま、
自分の道を歩き出す人の方が圧倒的に多く、

むしろ、そういう人の考え方にこそ、
メディアでもてはやされない分、
意外性があり、私は新鮮な発見があるのだ。

家族関係に関心を持つ読者は、言う。


<次にどんなバトンを渡していくか>

ここ何年も、
家族関係の心理的なことについて、
独学ですが、勉強し続けています。
まだ中途半端な知識、非常に未熟ですが、
ああそうだったのかとわかってきたことは数知れずです。

確かに親との間に確執を持ち、
それが自分の子育てに影響している人を、
周りでもたくさん見聞きしています。

無自覚な人ほど、子供への仕打ちはひどいです。
又、辛いことを思い出さないようにしている人は、
人生が希望に満ちたものとは思えないような人が多いです。
「自分は、親にひどいことをされてきた」と
言うだけの人も、無自覚な人のうちに入ると思います。

親子関係はもういい、と思えるまで
葛藤してきた人なら構わないけれど、
やはりある程度の葛藤は大事です。

自分の行動を親のせいにしたり、
言い訳の材料に使うことがあるということも、
糸口として悪くはないと思います。

ただ本当にそれをどうにかしたいのなら、
どんなことをされ、その時どのように思い、
どのように傷ついたか、
そういったことすべてを、覚悟を持って思い出し、
記憶をたどり、本当に話したい人にだけ聞いてもらう。

そこからやっと本当の意味での自覚、自意識が始まる

「その葛藤や苦しみを、
 具体的にどのように自分の中で処理していくか。」

すぐに良い策が思いつかなくても、
自覚し、考えることが大事です。

私が読み、実感したところによると、
親を「許すとか許さない」とか、
「対決するとかしない」とかは、
どちらでも良いといった印象、本人次第です。

色々なことが本に書いてあるけれど、
一番説得力のある言葉は
「親のことは変えられない」のです。

「自分」がどのように距離を取っていくか、
葛藤からどうすれば抜け出せるか、
どのように連鎖しないようにするか、

それを考え、振る舞い、
どういった態度と言葉で自分を表現するか。

自分の子供や部下などと対峙した時に、
一番大事なのはそこだと思っています。

どんなバトンを渡すか。

つまり、「自分と親との関係」は、「一番」大事ではなく、
どんなバトンを渡すかのヒントに過ぎないのです。

親との関係を考えることはとても大切ですが、
そのせいで動けない、のとは違うと思います。

「人のせいにする」のは簡単だから、
そのように考えるべきではない、とかでもないです。
「親のせいでこんな私になってしまった」
と知ったり感じたりするのは結構なこと。

でも、「だからできない」のではなく、

「だから私はそこから何ができるか」

「どんなバトンを渡していくか」。

その先に興味がありますよね。
(ペリーニョ)



共感するところがとても多かった。

親子問題が解決されないまま、
それでも自立した道を歩んでいく人の文章には、
2つの共通点がある。

1 想いを表現している。
2 先へ進む問いがある。

ある女性(Bさん)は、
父親が親としての役割を放棄した家庭で育った。

父親が働かない、
家にお金を入れない、借金までつくってくる。
そうした父親に対して、
母親は何もできない、娘のBさんに弱音をはく。

「父も母も弱い人間」

とBさんは言う。

Bさんは、大人になるにつれ、
社会のさまざまな弱い人たちに出会い、
そうした人々を助ける仕事にも関わるものの、

どうしても、善意になりきれない。

自分の中に、
ふりはらおうとしても、
弱い立場にいる人への「疑念」がわく。

無理もない、
生まれてきてからずっと、
父母の弱さの中で生きなければならなかったのだ。
弱い人に対して、
もっとどうにかできないのか、
もっとがんばれよ、
という気持ちが湧いても自然なことだ。

Bさんは、その想いを、

「弱い人と生きるのは苦しい」

と表現した。
そして、自ら問いを発する。

「ここから、次へ進むためにはどうしたらいいか?」

Bさんは、そこを考えて、
社会的弱者と言われる立場の人たちと
協同してあるものをつくるプロジェクトに参加する。

一方的に助けるのでも、助けられるのでもなく、
協力して何かをやりとげることを通して、
自分の弱い人に対する想いの「その先」へ、
進もうとしている。

Bさんが人生でつまずくたびに、

「ここから、次へ進むためにはどうしたらいいか?」

という問いをずっとずっと、発し続けてきたのが
印象的だった。

「だれが悪いか? 私か? 親か?」
とは裁かない。
そもそも「良い、悪い」、「犯人探し」の問いを
立ててはいない。

だから、自分の想いも、より自由な目で見てやれる。
「親に対して、こんなことを思っちゃいけない」
「自分より弱い人に対して、こんなこと思ってもいけない」
と裁いたり、隠ぺいしたりせず、
より深い想いを導き出せる。

親子問題は解決できなくても、

親子問題について、
ずっとずっと自分が根にためてきた
「想い」は、表現できる!

表現することで、
その想いは成仏できて、次へ進む余地が生まれる。

解決できない問題にぶちあたったとき、

もちろん、あきらめず解決を目指す道がある。
その行き方のほうが世の中では称賛されがちだ。

でも、
「問題を解決する」のでなく、
「想いを表現する」という道もあること。

自分がずっと執着してきた問いを手放して、
先に進むための、
「新しい問いに持ち替える」という道もあること。

この2つをお伝えし、
きょうはいったん、終わりたい。
来週は、「人に頼らないのが自立なのか?」
さらに、読者メールから考えていく。

最後に、このメールを紹介しよう。
「先へ、進みたい」は、
人間の本能的希求だと私は思う。


<次の問いを生きたい>

家族と上手くいかず、悩み続けて40年たちました。

落ち込むと必ず行き着くのが親からの虐待です。

あれさえなければ、
どうしてこんな家に生まれたと絶望的になります。

そう思いながら、でも
親に誉められたい、愛されたい、
嘘でいいからそう言って欲しいと
思い続けてきました。

それが今年に入ってから少しずつですが、
薄れて来ています。

今、この文章を書きながら、
どうでもよくなってきていると、はっきり言えます。

理由は多々あれど、もういいと、そう思ったと、
そうとしか言えないです。

ふとした時に思ったのです。

こんなことに40年も縛られていたなんて、
なんて勿体ないことをしてきたんだろう。

唖然としました。

びっくりしました。

どうせ悩むのなら、もっと別のことで悩みたい。

だって40年も、ただそのことだけ考え続けてきたのだから。

目が覚める思いです。

私の名前は母が付けてくれたのですが、
自立した人間になって欲しいとの思いが
込められているそうです。

今月末が誕生日なのですが、
その前にこう思えたことに清々しい気持ちです。
(リョーコ)

山田ズーニーさんへの激励や感想などは、
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2013-07-17-WED
YAMADA
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