YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson674 若者が何かをやめるとき

「ずっとがんばってきたことを、
 ある日、はらり、とやめてしまう若者」、

そこにどんな意味があるのだろうか?

「やめる」というと、
どうも悪いイメージで見られがちだ。

私も知らず知らずに継続のほうが価値があると
思い込んでいた。

でも大学で、
表現を通して、学生の考え方・生き方に
深く、数多く触れるようになって、

前途ある若者が、ふいに何かをやめる「心」が、
すとんと腑に落ちるようになってきた。

若者は、目に見える速度で育つ。

よく、身長の伸び盛りの少年が、
成長痛と言って、
骨が急速に伸びて膝が痛いとか、音がするとか。

親が見ていて、
昼寝する間にも身長が
伸びている気がするとか言うのを聞くが、
あんな感じで、

学生の中には、
半期の授業の間にもメキメキと、
別人のように成長していく人もいる。

先週、今週、翌週と、
表現力も、コミュニケーション力も、
見ているそばから伸びていく学生もいる。

受験のときに物凄く努力して、
理解力や暗記力、応用力の基礎を
たたきこんだ人が、

大学に来て、
学問の息吹をあびて、
自ら考えることに目覚めたり、

新たな異質な学生たちと出逢って、
交流したり、刺激を受けたり、
サークルで一緒に何かをつくったり、

親元を離れて一人暮らしをしたり、
バイトをしたり、恋愛をしたりすると、

化学反応がばんばん起こって
急激に視野が広がったり
自我が育ったりしている。

おとなだって伸びるけど、
大学生の伸びシロは驚くものがある。

成長のスピードと、はらりとやめる現象は、
関係がある。

大学に来た最初の年に、
「ずっとずっとがんばってきて
 自分の全てとも言えるサッカーをやめた」
という学生に出逢って、衝撃を受けた。

なぜか悪い印象がなく、
わけもわからず感動さえしていた自分がいた。

あれから7年、
突然、なにかをはらりと辞める学生に
数多く出逢ってきた。

今年度は特に、
私の目の前で、2つ同時にやめると宣言した学生がいた。

1つは、高校時代からがんばってきて
全国優勝も果たし、自己形成の軸となっていた文化部を。
2つめは、オーケストラにも入って、海外遠征もして、
ずっとがんばってきた楽器演奏を。

辞める前にと、演奏を披露してくれたが、
たいした腕前だった。

小・中・高とずっとがんばって、
受験の時期にも両立させてがんばってきたスポーツを
辞める学生もいた。

親の代から身についた宗教を、いったんやめて外に出て、
違う世界を見ると言う学生もいた。

続けられないのではない。

怪我をしたとか、落ちこぼれたわけでもない。

むしろ逆で、
好きで、努力して結果が出せて、
その道で有望とされている。

さらに、自分の意志で、手放したといっても、
決して平気ではなく、
自分で別れの選択をした分、
自分にすべての責任がふりかかる分、
悲しみも大きいし、実際、
喪失感だって長く引きずっている。

それでもこうした学生たちが、
ずっとがんばって何かをはらりとやめるのは、

いわゆる「脱皮」だ。

「ソフトシェルクラブ」という蟹を
食べたことがある人も多いとおもう
たいていの蟹は固い殻があって、
殻から身をほじくるのが面倒なのだけど、

ソフトシェルクラブは、脱皮した直後の蟹。

古い固い殻を脱ぎ棄てたばかりで、
まだ新しい殻は育っておらず、ほやほやなので、
殻を気にせず、丸ごと、焼いたり茹でたりして
食べられるのだ。

先日、この蟹の脱皮をテレビでやっていた。

成長して、自分の殻が窮屈になると、
皮肉なことに、それまで自分を支え生かし、
それがなくては生きられなかった殻が、
自分の成長の妨げとなってしまう。

より大きく伸びるには、
それまで自己を構成してきた殻を
脱ぎ棄てないといけない。

蟹は時間をかけて、じっくりじっくり、
古い殻を脱ぎ捨てた。

中からは、もとの蟹と、瓜二つの
殻がまだほやほやの蟹が出てきた。

殻のほうは、まだ、
まるで生きているかのように等身大で、
しかし、抜け殻となって、脱ぎ捨てられていた。

抜け殻を見ながら、
私は、ずっとがんばってきたサッカーをやめた学生の
こんな言葉を思い出していた。

「僕は弱かった。
 サッカーがないと自分として生きられなかった。
 サッカーは僕の全てだった。アイデンティティだった。
 サッカーが僕を成長させてくれた。
 サッカーを通して僕は強くなれた。
 だから、もう、サッカーがなくても、
 自分は自分としていられる。」

親離れしようとしている学生も同じだ。

親に感謝してないわけではない。
親にしてもらったことも、親との関係性も、
親が無ければ今の自分がないことも、
親の気持ちもよくわかっているからこそ、
そこから巣立とうとしている。

「それがなきゃ生きられなかったからこそ、
 それと別れなければならない。」

思春期の自己形成の軸となったもの、
でも、あまりにも1つを中心に形成しすぎると、
やがて限界が来て、窮屈になり、
急激に大きくなるためには、
いったん脱がなければならなくなる。

病気のため音楽と別れなければならない学生がいた。

彼は、自己表現であり、自分の居場所である音楽を失い、
別の道に進むも、やりたいことがみつからず苦しんだ。
しかし、海外に積極的に出て行って、
国際協力の視点から、異国の人と積極交流するうちに
こう実感した。

「音楽は自分が理想とする美しい世界を
 音色で見せてくれた。
 しかし、外に出て多様な考えや世界観に触れるうち、
 自分が音楽の世界から眺めてきた外と、
 現実は、あまりにもかけ離れているような気がした。」

ひとつの世界しか知らずに来た人が、
ふいにその世界から引きはがされ、
苦しんだとしても、

その後、一様に訴えるのは、「視野の広がり」だ。

視野の広がりというのは、
上記の学生のような、交際交流といった
価値あるものももちろんだが、

ストイックにつきつめたものを失い、
次の何かが見つからず、フラフラしたり、
飲み会をしたり、一見まわりからは、
挫折と映るような状態でも、

飲み会を通して、それまでつるんできたことの
なかった人と知り合ったり、
世間を覚えたり、人づきあいを身につけたり、
何より、それまでの目標に向かった生き方では
決してしなかった角度からの、ものの考えを知り、
柔軟さを身につけ、
また新たなやりたいことを見つけて直進していく。

まわり道をへた学生には、
何とも言えない、器がひろがった感じがある。

自分から、はらりと何かをやめる学生は、
自分では理由も言えず、周囲ももったいなく思って
なかなか理解されないが、

一つの世界をつきつめるうえで、
自分が選ばなかったもの、
そのために失ったものが見えている人なのかもしれない。

彼らは本能で、殻を脱ぐ。そして、伸びる。

今年度は、
とくにたくさんの、
脱皮の覚悟をした学生に出逢った。

私が見ているのは、
今脱ぎ捨てたばかりの、
等身大の殻と同じサイズの学生たちだ。

いつか将来、どこかで会ったとき、
この殻のサイズを超えてどれくらい
大きな器に成長しているのか、予想もつかない。

だから、楽しみだ。

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2014-02-26-WED
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