おとなの小論文教室。 感じる・考える・伝わる! |
Lesson680 「聞いてあげる」は良いことか? 「聞いてあげる」のは、 一般的に良いと思われている。 愚痴でも、不満でも、うっぷんでも、 溜まったままではツライから、 だれかに話せばラクになるから、と。 だが、どうも違うのではないか? そう思いはじめたのは、つい、 この正月のことだ。 ふるさとで、母が、 たまりにたまった「うさ」を 私に話していたときだった。 「このまま、母の話を聞いてあげ続けても、 どうもよくない方向へ行く。」 そう感じて、 正直に母にそう告げ、 なんと私は、母の話をさえぎってしまった。 母は失望をあらわにし、 だまって部屋を出て行った。 こう書くそばから、 「なんて親不孝な娘なの?」 「たまに帰省したときくらい親の愚痴を 聞いてあげなさい!」 という読者のお叱りが聞こえてきそうな気がする。 あれから3ヶ月以上も、 聞いてもらいたいのに聞いてもらえなかった 母の寂しそうな姿が、心に蘇って、 くりかえし、くりかえし、 私は、罪悪感に苦しみ、考え続けた。 「あのとき、母の気が済むまで聞いてあげる べきではなかったのか」 「なぜ私は、母の話をさえぎってしまったのか」 この4月、 母を東京に招待した。 2泊3日の短い上京だったけれど、 母が見たい見たいと言っていた 新しい歌舞伎座に、 母娘なかよく歌舞伎を見にくことができた。 母は、別人のように生き生きと顔が輝いて、 もうれつに楽しんでるんだなあということが ありありとわかった。 それはもう、食事にもありありと。 いつも食が細く、 どうやって母にものを食べてもらうか 頭を悩ますのだが、 母は、初日の沖縄料理の会席も、 翌日のイタリア料理のフルコースも、 最初から最後まで、なにひとつ残さずに ぜーんぶ、しかも、ペロリとおいしく たいらげた。 気分が輝くと体調まで変わる。 言葉にすると薄っぺらいけれど、 母と一緒に何を観ても、何を食べても、 そこに「愛」があった。 母が、岡山に帰ってしばらくして、 疲れをだしていないか電話してみると、 母はまだ、興奮さめやらぬ感じで、 帰りの新幹線では、 嬉しさにひとり泣けたと言い、 おみやげの歌舞伎座のおせんべいを あちこちに配っては、 あちこちに東京の土産話をして歩いているのだそうだ。 で、母はよっぽど嬉しかったのだろう、 もう20年来と語ることがなかった むかしの楽しかった記憶を、 次々と思い出して、 私に語り始めた。 母と姉と私と3人で温泉に行ったことや、 あのときあそこへ行って楽しかったね、 あのときあれを食べておいしかったね、と。 今回東京での、 1つ輝くような嬉しい体験が引き金になって、 次々、つぎつぎ、と 楽しい想い出が連鎖して蘇ってくる。 電話でこんなに母と心が通じ合い、 たのしく話せたのはいつぶりだろう。 東京の想い出を起点に、 私の中でも、母との楽しかった記憶が 次々と蘇り、つながって歓びの星座になり、 さらに、人生の歓びがキラキラと天の川のように 心にあふれた。 電話を切ったとき、 「あっ」とわかった。 この「連鎖」だ。 私が正月に、母の言葉をさえぎったのは、 憎悪の連鎖をとめたかったからだ。 1つ輝く歓びの体験が、 人生の記憶の引き出しから、次々歓びを 蘇らせ、引き寄せるように、 憎悪の言葉というものは、 記憶の中から、次々と、つぎつぎと 憎悪を蘇らせ、呼び集める。 話を聞いてあげる、 それ自体は良いことだと思う。 でも、それが必ずしもうまくいかないときがある。 腹の根に 憎悪のようなものが巣食ったときだ。 そこで吐いた言葉は、憎悪の言葉、 記憶の中から次の憎悪を引っ張り出し、 また次の記憶を引き出し、 憎悪と憎悪がつながって大きく膨れ、 話している人の形相を濁らせ歪め、 その場にも、 憎悪という毒気に淀んだ磁場を生む。 聞いている人の心の中からも、 憎悪の気持ちを引き出し、 次々と憎悪の記憶を蘇らせる。 こういうときはいったん止めないとだめなのだ。 人の話を聞く場合だけでなく、 自分ひとりで考えごとをしているときもそうだ。 どうも、その方向で考え始めると、 どんどんどんどん腹が立ったり、 どんどん自分が可哀そうになったり、 自分の中で毒気が増すようなとき、 私は、 「この方向で考えても、決していい方向にいかんな、 いったんやめよう!」 とそこで、その方向の思索をやめるようになった。 「気の毒」とはよく言ったものだ。 もし相手がいま、 胸中に、憎しみとか嫌悪とか毒を抱えている場合、 接し方はいくとおりかある。 ひとつは、相手の気が済むまで聞いてあげる。 気が済むまで相手に毒を吐いてもらい、 吐き出してもらい、すっきりしてもらおうという アプローチだ。 だが、相手が吐いた毒が、 相手の毒の記憶を連鎖して蘇らせたら、 聞いている自分にも連鎖し、毒の記憶が蘇り、 言う方も、聞く方も、毒気にやられてしまったら。 どうも毒の磁場が発生した状況では、 「聞いてあげる」がうまく機能しない。 相手がどんなに毒を吐こうとも、 全て受け流し、自分は毒にやられない超人だったら よいかもしれないけれど、 私にはできそうもない。 大切な人の話には、どうしても感情移入するし、 同化もする。 へたすると共倒れだ。 毒の磁場に、相手も自分もゆがみそうなとき、 いまの私の限界として、 「聞いてあげる」を続けることができない。 いったんその方向の話をやめるしかできない。 冷たいと言われるかもしれないし、 器がちっちゃいと言われるかもしれない。 そのとおりだろう。 けれども、また、母が元気を失ったとき、 今回の東京での輝くような想い出のように、 母と一緒に、歓びの体験をし、 母と私の心の中に、歓びの記憶の連鎖を生み、 つなげて星座にし、 いつかまた、キラキラと輝く歓びの天の川を 母と一緒に見たいと思う。 |
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2014-04-09-WED
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