おとなの小論文教室。 感じる・考える・伝わる! |
Lesson682 報復しない 「報復しない」というのがマイ・ルールだ。 嫌なことをされても仕返ししない、 悪口を言われてもその人を悪く言わない。 これは良心ではなく合理。 もし相手が本当に悪いことをしたなら、 どこか何かで巡り巡って 自然の摂理としてふさわしい報いを受ける。 だから自分で報復しようとする分は全て 「やり過ぎ」だ。 かなり昔のことで、 いまはもう何とも思っていないのだが、 ある人から 被害をこうむったことがある。 相手は明らかに故意に、 私に実害を及ぼした。 だから、まわりの人は 十人が聞いて十人、 私のミカタだったし、 相手はいったいどうしたことかと 驚き、あきれ、相手に嫌悪感をあらわにした。 ところが、 私が、みんなの前で、 相手を問いただしたり、責めているうちに、 しだいにまわりの心は、 私から離れていき、 どんどん相手に同情的になり、 しまいには、私に嫌悪を向けるようになった。 「やりすぎ感」が否めないのだ。 傷つけられた分を、 自分が直接、相手に言い返そうとすれば、 もうその時点で、 ひと言でも、やりすぎになる。 よく「やられたら、やりかえせ」と 言われる。 「自分が傷つけられた分だけは、 言葉で言い返す分には、相手を責めていいだろう」と。 でも、相手が本当に悪いことをしたら、 もう、悪いことをした時点で、 自尊心を損なうという報いを受けているし、 周囲の信用を失ったり、 悪いことをした根性を抱えて生きていくのは辛いし、 その根性を叩き直そうとしても苦労するし。 法に触れるようなことをした人なら、 法が裁いたり、償わせたりするだろうし。 相手は相当の報いを受けていくように思う。 人生に天秤ばかりがあるとすれば、 罪と報いは、その人の人生の中でつりあっていると、 私は、信じたい。 インターネットの中でも、 多くの人とつながれるようになった分、 ふいの言葉の暴力にさらされる機会が増えた。 そういうとき、私は人一倍、繊細に傷つくし、 腹も立つ。よほど言い返してやろうと思うことも、 何度もあった。 けれども、私は言い返さない。 どんなに抑えた、やわらかい表現にしても、 自分の腹の中に、 自分を傷つけた相手に しかえしてやろうという棘があるとき、 やっぱり、その棘は、相手を刺す。 それは行き過ぎだし、 自分が文章を通じてやりたいことは、 人に棘を刺すことか? と言えば、 そんなの全然やりたくも、おもしろくもない。 ツイッターなどで、たとえ匿名であっても、 故意に人を傷つけたり、 不快をまき散らすようなことをする人は、 やっぱり、 そのやりとりを見守っている人からの 信頼を失ったり、 なによりも、悪意を言葉にした時点で、 人を思いやる括約筋とか、 不用意な発言をつつしむ括約筋とか、 自分の本意にかなった発言を選ぶ括約筋とか、 「言葉の括約筋」が衰える、 という報いを受けているように思う。 だから、言い返さなくても大丈夫なんだ。 「報復しない」というのが、 これまでもこれからも、マイ・ルールだ。 |
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2014-04-23-WED
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