おとなの小論文教室。 感じる・考える・伝わる! |
Lesson706 めんどくさい女 ―2.読者はこう考えた ある日、めんどくさい女に遭遇した私は、 「自分がそうなってはいかん!」 自分が人に、こんなめんどくささを味あわせたら どんな信頼関係も、友情も、一瞬でドン引きだ と思い、自戒のために先週コラムを書いたところ、 反響が大きかった。 きょう紹介するおたよりは、 ひとことで言って、 かっこいい! 私がこの先、へたれたり腐ったりしたら、 何度でも読み返したい、 心に喝! をくれるおたよりたちなのだ。 <私も以前はめんどくさい女でした> 「めんどくさい女」を読みました。 義母と夫が、このタイプです。 夫は、全てが「そのつもり」「〜であるべき」です。 違う反応が返ってくると理解できず、 何も言わずに帰ってきて、延々私に愚痴を言います。 義母は、思い通りに至らない時は、 全て「自分が嫌われているせい」という結論になり、 相手を恨み、付き合いを絶ってしまいます。 誰しも、自分が思っていた反応や結末に至らない時、 不満足な気持ちを抱くと思います。 私も以前は、2人と同じ、 「こうでなければいけないのに、相手が間違っている」 「私が嫌いだから、みんな賛同してくれないんだ」 などと、勝手に落ち込み、 後で相手に非難の手紙を送ったり、 悪口を広めたりする、めんどくさい女でした。 でもある時期、 たくさんの人との対話が必要な仕事に就き、 その仕事を通して気付いたのです。 「自分と考えが違うという事は、 相手にとってみれば、私の考えが違うという事だ」 と。「〜のつもり」「こうあるべき」は、 あくまで自分の主観でしかない。 自分の主観と人の主観は違って当たり前なのです。 コミュニケーションは、 自分が伝えたい事がある場合、 相手を否定したり、 逆に自分を否定したりするのではなく、 相手によって自分が変わる事が必要だと、学習しました。 専門職で人とのコミュニケーションが得意ではない夫、 家に閉じこもりきりで人嫌いの義母。 2人に対しても、 伝わる話し方をしていきたいと思います。 (もつ) <「つもり」と「べき」> 「つもり」というのは女性に多いような気がします。 逆に男性は「べきだった」で過去に執着する人が多い。 (ピース山田) <後出しジャンケンの日々> めんどくさい女は、「後出しじゃんけん」 ではないでしょうか。 自分が責任を負いたくない。 だから、相手の出方をみて都合が悪い場合は、 「私は○○のつもりだった (なのにそれをわからなかったあなたのせい)」。 自分を守りたい。 だから、自分が描いていた物と別の事態が起こると 「私はこうするつもりだった。 (でも、周り=環境や関わる人々、が私の意思通りに 動かなかったの、だからそれは周りのせい)」。 「自分を安全圏に置いているだけ」 のような気がします。 自分を過去に置いて、後だしじゃんけんを続ける限り、 自分は傷つかない。 「つもり」は、 起きた物事の起因を、 全て自分以外のせいに出来るテクニック。 そうしていると、 自分が本当に望んでいる事を見ずにすみます。 自分が望んでいる事をきちんと見なければ、 それが叶わない原因かもしれない 自分自身を見つめずにすむのです。 自分を見つめると、 都合の悪い事も、不出来な事も、 自分が行けない事もたくさん出てくる。 それを自覚する作業はきつい。 だから、知らん顔していたい。 30代後半の頃、 付き合っていた彼に(不倫ではありませんが)、 どうしても結婚できない事情がありました。 それでも私は、彼が好きで別れるのが嫌で、 出産年齢のデッドラインが迫っている事に悶々として、 毎日を送っていました。 仕事では、責任のあるプロジェクトを任されたりして、 今考えると、大きなチャンスを頂いていたのですが、 結婚・出産に気持ちが向いている私は、 仕事でのチャンスをチャンスと受け取れませんでした。 あの頃の私は、めんどくさい女だったと思います。 「私は結婚して子どもを持つつもり。 なのに、あなたがそれを叶えてくれない。」 とにかく、いつもこれが心にあるので、 何が起きても、「こんなはずじゃない。」に なってしまう。 あの頃の私は、毎日、誰に対しても 「こういうつもりだったのに、○○が違う。」 と文句や愚痴ばかり言っていたような気がします。 全てを人のせいにしていると、 自分が出来ない事、持てない物を認める必要もないし、 自分のエネルギーを使わないので、楽でした。 でも、ある日、ふと思ったんです。 「私は本当に家庭や子どもが欲しいのだろうか? もしそれが、自分の望む1番なら、 お見合いをして結婚すれば良いのではないだろうか?」 湧き出た自分への問いを、 少し時間をかけて見つめてみました。 そして、私は、 「えーい、やっぱり彼が好きだ。それが私の1番だ。 なら、子どもを持つ人生を1度あきらめてみよう。」 と、思ったのです。 そうしたら、なんだか軽くなりました。 執着を手放す、というようなカッコいいものではなく、 明らかに「あきらめる」でした。 けれど、あきらめると自分が軽くなる事ってあるんです。 結局、その彼とは数年後に別れ、 時が経ち、私は独身で、 子どもを産める年齢はとうに通り越しました。 けれど、あのあきらめを後悔していないし、 清々しく思っています。 仕事でもプライベートでも、 あらゆる場面で、想定外の事態に 柔軟に構えられるようになったからです。 あきらめた時、肝が座りました。 「自分の人生は、外的要因ではなく、 自分で選んで決めていくんだ。」 それが、始めて心からわかった瞬間だった気がします。 あの時、あのまま、時間を、年を、重ねていたら、 私は、とんでもなく 「めんどくさい女」になっていったのではないかなぁ。 (ワタナベニャンコ) <わわわわっ!> こんにちは、私は大学4年生です。 いま、留学をしています。 「めんどくさい女」を読んで(わわわわっ)と 焦ってしまいました。 ああ、自分は人に期待し過ぎていたんだなあ、と。 それが、いま留学中に感じているもやもやに 繋がっているんだなあと。 自分の思い通りに行かないことなんて当たり前なのに、 人が悪いかのように思って自分を肯定してかばって。 そんな自分に気がつきました。 「つもり」から目を放して前を向いていこう、 そう思えました。 (かんな) <言い換えれば「自律」してない> 私は、「つもり」の多用は、 相手に自分の思いをくんでほしいという 「甘え」ではないかなと思いました。 自分自身も、「甘え」によって、 「つもり」の多用をしていることがあるのではないか? 自分がこうしたら、相手はこうしてくれるだろう、と 自ら決断をせずに、相手にゆだねる。 期待したものと違う形で帰ってきた場合に、 その違和感を相手に伝えるというようなものです。 自律していない、とも言い換えられるかもしれません。 私はこの「自律」とどうもうまく折り合いを つけられないようで 他人との距離感も、30歳になった今でも なかなかうまくつかめないのです。 現状を受け止め、未来につなげていく発想が常に できるようになると 自分自身も、生きやすくなるだろうなと感じました。 「つもり」を手放すということは、 現状を把握し、受入れるということ。 自分が無知である事を知っている人は、 それが簡単にできるのかもしれないなと思います。 (あなぐま) <さくっと手放せたのは、なぜ> 思い出したのは、 うまく「つもり」を手放せた2度の経験です。 一度目は大阪から東京へ、 シルク・ドゥ・ソレイユを見に行った時。 会場について、中に入ろうとチケットを提示したところ 入れず。 なぜ? と思ったところで、重大な事実が判明。 実は彼の取っていたチケットは1週間前のもので。 事実を知った彼は呆然としてました。 わざわざ上京までしたんですから、当然でしょうね。 私としても、すごくすごく楽しむ「つもり」だった 公演なので、 とっっても残念だったし、腹もたったのですが。 なぜかそのときは 「ま、席がないもんはしゃぁないよね」 と潔くあきらめることができて。 彼と手を繋いで、渋谷をぐるっとお散歩。 たまたま見つけたお店に入って、 ふたりでおいしいケーキを食べて帰りました。 二度目は、同じ彼とディズニーリゾートに 行ったときのこと。 わくわくしながらランドに入場し、 抽選だったショーに当たって喜んで席につき、 ショーの開始を待っていたら、彼の携帯が鳴り。 「緊急のお客様対応が入ったから帰るわ」と。 そして、そのまま大阪まで帰ってしまったのです。 クリスマスシーズンまっただなかのディズニーランドに、 ひとりぼっちで置いてけぼり・・・。 しかも無理矢理に会社から有給をもぎ取って出かけた 金曜日平日。 空いていて、いろんなアトラクションを楽しめそうな パークで・・・。 ふたりでディズニーランドを 満喫する「つもり」だったのに! しばらく泣きそうになってましたが、 このときもなぜか 「いないもんは、しゃぁないわね」 と気分を切り替えることができて。 彼と一緒ではぜったいに時間を取らせてくれない、 いろんなグッズショップを片っ端から見て回って 制覇する! という楽しみ方に切り替えて。 かわいいグッズにきゃぁきゃぁ言ってました。 なぜ自分がさくっと「つもり」を 手放すことができたのか? きっと、どちらも彼のほうが イベントを楽しみにしていたこと。 1度きりのことではなく、 「また次があるさ、」 と思えたことが 切り替えのきっかけになった気がします。 (大阪のくろねこ) 「責任」が背負えるかどうか、 これが、 単に人をめんどくさがらせるだけで終わってしまうか、 めんどくさくさせてもその先に実りを生めるかの 分かれ目だと、読者のおたよりに改めて思う。 仕事でも、プライベートでも、 ささいなことであっても、 ささいなことならなおのこと、 自分の分の責任を、自分は背負いきれているだろうか? つぎの読者の、この言葉に、 私は痛く共感する。 「自分の責任で仕事をするなら、 “つもり”はなんの役にも立たない!」 このおたよりを紹介してきょうは終わろう。 <先始末> 私の会社では、 「先始末」という言葉をよく使います。 「何かが起きる前に、相手の先回りをして、 言葉をかけるなり、対策を打つなりしよう」 ということです。 会社に入りたてのころは、 後手後手に回った結果失敗、 ということがよくありました。 その原因は、 経験不足から予測がたてられないというより、 「まだ“自分の仕事だ”という気持ちが少なかった」 のだと思います。 今思い返せば、落ち込むことが多い日々でした。 「自分の責任で仕事をするなら、 “つもり”はなんの役にも立たない!」 と思えるようになったのは比較的最近のことです。 今は、先始末に気を付けると共に、 何か起きてしまった場合は、 「とりあえずしょうがない! 後でめちゃめちゃ反省するとして、 今何ができるんだろう?」 と多少無理矢理でも思うことにしています。 そう思えるようになってから、 私の落ち込む形も変わってきました。 「こういうつもりだったのに」は、 自己反省の材料としてはまだ許容範囲かもしれません。 確かに、自己反省としての 「こういうつもりだった」「そんなつもりはなかった」 「反省している」「落ち込んでいる」というのは、 反省していない、まったく気にしていない、 というよりは「正しく」見えます。 でも、それだけです。 自分に厳しいように見えて、 その自分の弱さや欠点にずぶずぶに浸かっているだけ。 塞いだ気持ちのままでは、 他の人に鬱陶しいを抱かせ、効率を悪くし、 結果的に明日の自分の首を絞めます。 本当に反省をしたのならば、 本当に「そんなつもりはなかった」ならば、 次に活かさなければ。今できることをしなければ。 だって、 落ち込んでいても、 辛くても、 文句を言っていても、 現実は、間断なく、容赦なくやってくるんだから! それを乗りきるのは、自分しかいないんだから! (こげつ) |
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2014-10-22-WED
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