Lesson742
意見がわれたとき「人につく」人
もしかして、自分でも
やってしまっているかもしれないんだけど、
意見がわれたとき「人につく」人がいる。
これってどうなんだろう?
過日、
意見がわれる場で、1人だけ、
妙に「違和感」のある発言をする人がいた。
Aさんとしよう。
どうも、Aさんの発言だけ、
「らしくない」というか、一貫性がない。
と思っていたら、私は、
Aさんに、そうとう酷く言葉で攻撃されていた。
思いやりのカケラもない。
私になにか恨みでもあるのか、と
考えてみたけど、ちがった。
Aさんは、どうやら、その場にいる
「ある人物」にかたいれしているようなのだ。
その人物に、恩義があるのか、
好かれようと思っているのか、
とにかく、その人物が「白だ」と言えば、
Aさんも、「白だ、白だ!」と言い、
「黒だ」という人を攻撃してはばからない。
Aさんらしからぬ、
攻撃的な言葉を私に浴びせたのも、
私に恨みがあるとかではなく、
「黒だ」という私を攻撃する、そのことによって、
ある人物への忠誠を表したい
というようなことなんだと理解した。
Aさんは、意見がわれたとき「人につく」人だ。
義理堅いんだと思った。
私も義理堅い方なので、
意見がわれたときに義理立てしたい人物につく
ということを、無意識にやってないだろうか。
その何が問題かというと、
「自由」でないことだ。
議論は、「意見と論拠」で行われる。
「意見」は、自分で自由に考えて決めてよい。
でも、「人につく」と決めた時点で、
意見の自由を放棄してしまう。
意見は、ついた人物に従属する。
あとは、その意見に都合がいい論拠だけを集めてきて
並べて、正当性を主張するだけ。
「人につく」ことに、ひっかかるもう1つは、
「この人のために」と、加勢して発言するとき、
そこに「正義感」みたいなものがまぎれこむこと。
「友だちを守るため」とか「恩義を返すため」とか、
そういう正義にくらむと、反対意見に容易にかみつき、
その発言に傷つく人が見えなくなってしまう。
私は、「人につく」ことはしないようにしよう。
では、「意見」につくか?
というと、それもそんなに自由ではない。
熟慮の果てに出た揺るぎない意見であれば、
まず自分の「意見」を固定して、
そこから、白か、黒か、敵か、ミカタか、と場を見て
議論に入っていいのかもしれないが、
人は、ニュートラルにしておいて、
徐々に問いを発し、
その問いについて調べたり考えたりして
意見を打ち出すよりも、
まず先入観で自分の「意見」を決めてしまい、
あとは、それに合致した論拠を集めていくことをしがちだ。
これは、「人につく」代わりに、
「自分の先入観につく」ことだ。
自分の先入観にとらわれて
自分の先入観という壁を破れないまま終わってしまう。
人につこうが、
自分が最初に抱いた意見にとらわれようが、
結局は、自分の先入観との闘い。
私は、自分の先入観の壁を超えたい。
だから、「論点=問い」を持って議論に臨みたい。
テーマに対する、自分の切実な「問い」。
本当にわからないから、
知りたい・解きたい「謎」をもって議論に臨みたい。
すると、他の人はどう考えるのか、
かけねなく聞くことができるし、
意見がわかれても、多様な意見の一つ一つが、
謎を解く鍵になる。
どこまでも揺らぎながら、
考える自由を手放さないでいたい。
どのような議論にあっても、
安易に人の意見や論点にのっからず、
自ら「論点」を起こせる人でありたい、と私は思う。
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