YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson815
  就活の「やりたいこと」とは?



就活で、

「やりたいこと」

と聞くから、
自己実現と仕事が混線するんだろうなあ。

実際は、

「社会は、
電車を走らせる人、食品を作る人、
病気を治す人‥‥、

皆が何かの苦労を分け持つカタチで成り立っています。

社会に出ていくとは、
自分も何かの社会的苦労を引き取ること
とも言えます。

あなたは、

どの苦労なら引き受けられますか、
役に立てそうですか、
責任を持って続けられそうですか?」

と聞く方が幻想は生まないだろう。

と言うそばから、

「なんだ、それじゃあ夢がないじゃないか、
若者にはもっとドーンと、
“やりたいことをやろう!”
と励ましたほうがいいんだ」
という反論が聞こえてきそうだ。

「やりたいことをやろう!」

なんて気持いい、かっこいい言葉なんだろう。

私もそこになんの反論もない。
やりたいことがある人は、そこに向かってまっすぐ
就活をがんばってほしい。とてもいいことだ。

一方で、人は多様だ。

やりたいこと、という言葉の迷路にハマり、
動き出せなくなる人や、

就職したものの、
やりたいことがやらせてもらえない、
こんなはずじゃなかった、
と力を落とす人もいる。

「仕事は、他者を満たす。」

「自己実現は、自己を満たす。」

もともとベクトルがちがうものだ。

にもかかわらず世の中には、
「自己実現=仕事」の人もいる。

プロ野球選手として超有名なイチローは、
「野球=自己実現=仕事」だ。

自分の好きなやりたいこと=野球を
ひたすらやっていけば、
自分が自分らしくあれるし、なりたい自分になれる。
それが、そのまま仕事になる。

あるいは、
小さいころからごく自然に抱いていた夢が、
他者貢献に向かっていた人もいる。例えば、

「看護師=自己実現=仕事」。

生まれ持った性分として、
苦しんでいる人を助けたい・助けずにはおられない
と言う人がいる。
看護学部に出講すると、そういう学生に数多く出逢う。

「小さいころから困っている人の役に立ちたいと想い、
看護師をしてる母を、大変だけれどかっこいい、
自分もそうなりたい、と思ってきた」

という学生は、看護師になることで、
自己を表現できるし、なりたい自分になれる。
それがそのまま「仕事=他者を満たす」になる。

一方で、「自己実現≠仕事」の人もいる。

これもとてもよいことなのだ。

小さいころからプロ野球選手になることを夢見て
頑張ってきた、でも、プロにはなれなかった。

野球は仕事にできなかった。
でも、ライフワークとして、地元の少年野球の監督として
一生、真摯に続けていく。

仕事は、もともと故郷の人々に役に立ちたかったので、
公務員になって、町おこしにがんばりたい、
という人の場合、

「自己実現=野球、仕事=公務員」

野球と町おこしの2つの柱が、
自分の人生にしっかりあって、
2つの世界を行ったり来たりできる自由がある。

あるいは、「やりたいこと=恋愛」と言う人がいて、

いままで恋多き女として生きてきたし、
これからも一生恋しつづけられる人と結婚するか、
一生独身を貫いて恋多き人生をまっとうするか、
どっちにしても恋してないと私じゃない、
という人の場合、

「自己実現=恋愛」、

これをむりくり仕事に結びつけるとすると、
豊富な恋愛経験を生かして、
恋愛コンサルタントになるか、恋愛小説家になるか‥‥。

でも、本人が、
「仕事にしたら、恋にのめりこめなくなる。
恋愛は恋愛で思う存分たのしみたい」という場合、

自己実現と仕事をあえて一致させない自由がある。

自己実現と仕事が一致したやりたいことがある人は、
それでいい。

自己実現と仕事がなるたけ一致したところで
就職先をみつけたいと考えて、
みつけられたらそれもいい。

でも、それができない人、
仕事はちゃんとやるが、自己実現というほどには
仕事が人生の真ん中に来ない、という人の場合、

本来ベクトルのちがう自己実現と仕事を
むりくり一致させた「やりたいこと」を
一気にわりだそうとしたら、

やりたいことがみつからない、動き出せない
ということが起きても、むりもない。

仕事と自己実現をわけて考えてもいいのだ。
そのほうが、前に進める人もいる。

そんなときに、冒頭の質問に戻って、

「自分はどの社会的苦労なら、
比較的、苦じゃなく引き受けられるか?
人や社会に役立てるか?
責任を持って継続できるか?」

と考えていくのも一助となる。

そのときに、
「自分の想い」と「できること」を尊重してほしい。

自分は小さいときから、
なにか人が育つ匂いのするところが好きだったから
どんなカタチでも教育に関係あるところで働けたらいいな、

というような自分の「想い」。

ささやかでも、「働くことへの何かしらの想い」なら、
みんなにある。それを尊重する。

また、「できること」。

自分は、ひとり孤独にもくもくと
物を作りつづけることが得意で、
そういう仕事なら苦じゃなくできる、とか、

自分のいる田舎町で、
海外経験のある人はごくわずかだ。
だからこの経験を生かしたら、
故郷の人の役に立てるんじゃないだろうか、とか、

「自分にできる・人に役立てることは?」

という方向から、仕事を見つけていってもいい。

イチローにとっての野球のようには、
仕事にのめりこめなかったとしても、

「やるべきこと」と責任を持って続けていければ、
良い就職ではないか、と私は思うのだ。

「やるべきこと」をやっていかないと力量は増えない。

力量=できることを増やさないと、
やりたいことすら限定されてくる。
できることが増えれば、夢の範囲も広がっていく。

「できること」は、人の役に立つ。

奉仕のためだ、貢献だ、と思ってやってたら、
人に歓ばれ、そこでの人とのつながりが、
思いがけず「やりたいこと」へ導いてくれたりする。

やるべきこと・できること・やりたいことは
連動し合って伸びていく。

どの入口から社会に入ってもいい。

最初は、
「自己実現=野球、仕事=公務員」と、
2つを分けてスタートした人が、

やがて、町おこしの経験や、
少年たちを育てるスキルを積み、
いつしか、

「野球が、地域のコミュニティづくりに生かせる!」

と、自己実現と仕事がつながるようなことも
起きる。

やりたいことが見つからなくても、
どの入口からでも、社会に出て、
鍛えられ、
仕事でできることが増え、
いつのまにか自分の手でたくさんの人を歓ばせることが
できるようになっていたとき、

「他者を満たすことで、自分が満たされる。」

そのとき、その人の、
やりたいこと・やるべきこと・できることが一致した

「本望」が叶う

と私は思う。

ツイートするFacebookでシェアする


山田ズーニーさんへの激励や感想などは、
メールの表題に「山田ズーニーさんへ」と書いて、
postman@1101.comに送ってください。

2017-02-15-WED

YAMADA
戻る