Lesson867
やりたいことが見えないときに
「やりたいこと」
というきらめく言葉に
人はとらわれがちだけど、
「できること」
を増やさないと、
やりたいことも皮相なまま育っていかない、
面白くならない。
できるようになると面白くなって
どんどんやりたいことも見えてくる。
できることを増やすには、
「やるべきこと」
をやる、地道な積み重ねが大事なわけで。
若いころの私は、こうしたことが
全然わかっていなかった。
だから、
「いま自分をとりまくすべての不条理を
イッパツで解決してくれるような、
“やりたいこと”がどこかにある」
「そのやりたいことが見つかってないから、
自分はやる気が起きないし、
人生ぱっとしないんだ」
と、じっと待っている、
あるいは探しまわる人の気持ちは、
自戒を込めてよくわかる。
でも今は、私はこう思う。
やりたいことがやれている人というのは、
好きな面白いことだけをやれて、それ以外
しなくていい人のことじゃなくて、
「やるべきこと→できること→やりたいことの循環」
ができている人、生活の中に組み込まれている人。
そして、
やりたいこと・やるべきこと・できることの
せめぎあいから逃げず、
考えて、より良い選択ができる人。
たとえて言えば、
生まれてこのかた料理をしたことがない人が、
家族の入院などで、
一家の料理番をまかされたとする。
みそ汁ひとつ作るにも恐ろしく時間がかかる。
おいしくない。
家族は、「ありがとう」すら言ってくれない。
奮発して高い肉を買ってきても、
他の店でもっといい肉がずっと安く売ってることを
あとで知り、そんな小さなことにも、
いちいち落ち込んでしまう。
「自分の“やるべきこと”は料理。
なのに自分はそのやるべきことにおいて、
“できること”がほとんどない。」
この状態は、なにをどうやってもツラく、
身の置き所がない。
手伝いもせず料理に文句ばかりいう家族も、
こっちの店で買えば、あっちの方が安く、
あっちまで行けば、こっちが特売をやっていたと、
あとで知る商店街も、
まるで世界が自分に意地悪をしているように思う。
それが、
みそ汁の出汁は、
3〜4日分まとめてとっておくことを覚え、
近所の安売りのチラシは、ネットでまとめて
チェックできることを知り、
できなかったことが少しずつできるようになる。
「今日は近所でいちばんいい肉を、
いつもの半額で買えた!」
というような小さなことが、
なんでこんなに嬉しいのかというくらい歓びになり、
やる気になり、
コツコツやっていくうちに、
家族から「おいしい」、が聞こえるようになり、
「次はイタリア料理に挑戦しよう」、
「友達を呼んでホームパティ―をやりたい」と、
思いがけずに、
「やりたいこと」まで見つかったりする。
このたとえのように、
ある程度できることが増えていかないと、
やりたいことかどうか見極める土俵にすら立てない。
自分を振り返っても、
新人のうちは、たいしてできることがないから、
どう転んでもツラかった。
できることがないからといって、
誰にでもできる簡単な仕事に配属されると、
「自分はこんなことのために大学を出たわけじゃない」
「これは私のやりたいことじゃない」
と不満を言う。
それならと、やりがいのある仕事を任されると、
「自分には荷が重すぎる」
「自分には経験もないし、才能もない」
と潰れる。
だけど、
いわゆる、やりたいことをやれて輝いている人も、
学生の中に、Jリーガーになった人や、
芸能界で活躍する人もいるが、
そういう人も、
やりたいことを見失って苦しい時期は、
大なり小なりある。
でも、そんななかでも訓練とか、
日々やるべきことを怠らない。
モチベーションがなくても、やっていく過程で、
できなかったことができるようになる小さな歓びを糧に、
やり通す。
結果、できることが増えて、
それで人に歓んでもらったり、抜擢されたり、
次のやりたいことを見出している。
そのやりたいことに向かって、また、
日々のやるべきことに身が入り……、と、
「やるべきこと・できること・やりたいことの循環」が
よくできているように思うのだ。
自分に起こるすべての不条理がイッパツで晴れるような、
やりたいことが見つからないからと言って、
落ち込んでいるだけでは、はじまらない。
「自分にできることはあるか?」
「できることをどう増やしていくか?」
と考えてみるのもたのしい。
やりたいことというきらめく言葉に、
とらわれて、動けなくなるとき、
いまやるべきことを高い質で心をこめてやり通して、
それで思いがけずできることが増えて、
そのおかげで人が歓んだり、
自分の新たな能力が見出されたり、
そのあげくに、
「あ、いまやりたいことがやれてる」
と気づく。
そういう順番でもいいのではないか、
と私は思う。
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