フランコさんのイタリア通信。 |
ジーコとフランコ・カウズィオ、 二人の現在。 1983年、世界一有名なサッカー選手といえば、 アルトゥール・アントゥネス・コインブラでした。 おっと、この名前では、ご存知ないかたも、 いるかもしれません。 またの名を、ジーコ。 当時から、そのニック・ネームのほうが よく知られていましたものね。 彼は、リオ・デ・ジャネイロで、 そしてブラジルで最も誉れ高いチーム、 「フラメンコ」のスターでした。 ジーコの人生の欄外には、こんな書き込みがあります。 「ブラジルの大都市のスラム街近くで育った」。 貧困、空腹、人々のいさかい、そして「理不尽」・・・ 彼はそこで、幼くして人生のあらゆる醜さを知り、 汚れのない少年時代の一端を 売り渡さなければなりませんでした。
ジーコの足は音楽を奏でます。 彼は靴の先で無神経にボールを蹴飛ばしたりはしません。 ジーコがボールを蹴る時、 まるでピアノを調律できるくらいに完璧で 澄んだ調べが、こぼれ落ちてきます。 みなさんは、ブラジル人がシャワーをあびながら歌うのを 聞いたこと、ありますか? 正しいリズムを取らないんですよ。 でも彼らの歌、リズム、ダンスは すばらしく私たちの心をうちます。 世界中にはサッカーのうまい人も、 踊りのうまい人もたくさん居ますけれど、 サッカーをプレイしながら、 完璧にシンクロしつつ踊ることもできるのは、 ブラジル人だけなんです。 そして、なかでもジーコは、 ぼくが知る限り、かつでないすばらしい 「サッカーの音楽家」でした。 ジーコのような男にとって、 試合とは、クラリネットの独奏みたいなものです。 彼のくりだすボールは、 まるで天からおりて来たような調べを奏で、 観客はそれをうっとりと見つめることになります。 そして試合が進むにつれ、 そのハーモニーは、徐々に頂点に達し、 みごとなオーケストラへとなっていきます。 1983年に、ジーコはイタリアのチーム、 ウディネーゼにスカウトされます。 初めて記者会見に現れたジーコの顔には、 絶望的な陽気さに満ちた 悲しい微笑みが浮かんでいました。 それは、最も執念深い敵である 「空腹」からのがれるために、 子供らしい子供であることを飛び越え、 おとなにならざるを得なかった人の微笑みでした。 ジーコは、貧しく疎外された人々のシンボルです。 ジーコがサッカーの世界で見せる、 昨日よりもっと完成された今日の魔法の数々は、 今日の人生に疲れている人々に 明日を生きる力をあたえるのです。 ジーコはウディネーゼの10番のユニフォームを身に付け、 ジェノヴァでデビュー戦にのぞみます。 彼がこの試合で決めた3本のゴールは、 3本ともがいずれ劣らぬ美しさで、 イタリアのサッカー界を魅了しました。 それはもうシャツの色のちがい、 つまりチームのちがいなど乗り越えて、 みんながとことん彼に惚れてしまったのです。 ジーコが愛おしむようになでるように放つボールは、 完璧な調べを奏で、解放の詩を唱い、 陽気な喜びをまき散らします。 理不尽なことの多い人生に、意味を持たせるために・・・
ジーコはウディネーゼで フランコ・カウズィオに出会います。 カウズィオは、その前年、1982年に イタリアのアズーリと共に チャンピオンになった選手でした。 彼らは兄弟のように仲の良い友達になりました。 それから20年ほどが過ぎた今も、 彼らはずっと友達同士です。 いえいえ、「今も」どころか「前よりもっと」です。 年月と遠距離とが彼らの友情を強く固めましたからね。 ジーコは今、日本ナショナル・チームの監督です。 一方カウズィオはイタリアで、 監督たちのためのスペシャル・コースに通っています。 友達同士のこのふたりは、よく電話をかけあっています。 来春、カウズィオが超ハイ・レヴェルの 監督の研修を終えた時、 彼の昔の仲間であるジーコに、 日本で会えるかもしれません。 ジーコが日本ナショナル・チームを指導するなかで、 いろいろ素晴らしいことをやるであろうと カウズィオは確信しています。 「ジーコは高いところから全体を見渡して、 ものごとを大きく広く考えるということを 身に付けているからね・・・ ヨーロッパで経験を積みつつある 国際的レヴェルの選手たちが 日本チームには居るしね。 中村、中田、小野、稲本、 みんな本当にチャンピオンたちだよ」 さて、カウズィオは日本で何を・・? 「僕は兄弟みたいな大親友のジーコに会いに行くんだよ。 僕も彼と同じような経験をしてみたいな。 もしかして彼と一緒に・・・って? さあね、誰にもまだ分からないことだけど・・・」 翻訳/イラスト=酒井うらら フランコさんのくわしいプロフィールはこちら、 フランコさんのホームページはこちらです。(日本語もあるよ!) |
2002-11-04-MON
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