フランコさんのイタリア通信。
アズーリにいちばん近いイタリア人の生活と意見。

バッジョ、引退の時。

みなさん、新年おめでとうございます。
今年はどんな年になるでしょう。
世界の、イタリアの、サッカーには
何が起きるでしょうか‥‥。

ひとつだけ分かっている事があります。
イタリアのサッカーにとって
歴史的なことが起きる、ということです。

その記念すべき時は、
来る5月16日の夜に来ます。
ブレシャ対ミラン戦の終る時、
ひとりの選手が現役を引退します。
ブレシャの10番、
そう、あの偉大なロベルト・バッジョが
ピッチを去るのです。

どんなに素晴らしいことも、
別れを告げる時が来る。


彼はきっと両手を挙げて、
競技場にいる総ての人々に向かって、
いえ、世界中のサッカーを愛する人々、
ボールを蹴る芸術に魅せられた総ての人々に
向かって、別れの挨拶をするでしょう。

限り無い勢いと不朽の素晴らしさを誇っていた
イタリアのサッカーの、
最後の後継者は彼であったと
僕は感じています。
まだ金儲けが最優先されては
いなかった頃のサッカーの、ね。

彼はこのクリスマスと新年の休暇を
アルゼンチンで過ごしたはずです。
彼不在のイタリアに、
彼の口から決断が告げられるテレビ番組が
放映されました。
すでに録画されていたのです。

「どんなに素晴らしいことでも、
 別れを告げる時がきます。
 その時を選ぶことが必要です」

バッジョは、きっぱりとこう言って
テレビカメラを見つめました。
その眼差しは、彼のゴールを阻止しようと待ち受ける
敵のゴールキーパーを見やる時の彼の眼差しのように、
優しくも断固としたものでした。

「この決断は、ぼくにとって苦しみを伴うものでした。
 でも、人生における大きな決断は、どんな時も
 安いものではありません。
 大切なのは、
 ふさわしい時を選ぶことです」

彼が最後の試合を闘うサン・シーロ競技場は、
彼を良く知っています。
ミラン、インテルとシャツの色は変わっても
主役であり続けた彼をね。
同じ事は二度と起きない、
まるで「劇場の舞台」のようなサン・シーロ競技場で、
彼は最後の闘いに挑みます。

サン・シーロ競技場は、
同じミラノにあるオペラの殿堂になぞらえて
「サッカーのスカラ座」とも呼ばれます。
まさに質の高い「サッカーの役者たち」が揃う所ですからね。

中でも最高の人気を誇る「立て役者」であったバッジョが、
この劇場に別れを告げようとしています。


バッジョの3度のW杯の歴史。


バッジョは並のチャンピオンではありません。
チャンピオン中のチャンピオンです。

彼の真似は誰にもできません。
4年に一度のW杯で、
3回も主役をつとめました。
いずれの回でも大変に高レベルの試合を
見せた、スーパースターです。

まず1990年。
彼の新鮮で素晴らしい想像力が
世界中の視線を集めました。

彼はイタリアを引っぱり続け、
準決勝戦にまで進めました。その準決勝戦で、
アズーリ(イタリア・ナショナル・チーム)は
アルゼンチンにPK戦で破れ、
3位に甘んじましたが。

1994年のアメリカでのW杯では、
彼の決めるゴールの数々が、
サッカー後進国であるアメリカでの
サッカー熱をあおりました。
洗練された技の指導を乞われた彼が、
アメリカに1ヶ月も滞在したほどです。

天使がプレイしていると思えるほどの、
天国で生まれたかのような美しく上品なプレイで、
彼はイタリアをこの回の決勝戦に導きました。
そして、ブラジルとの決勝戦は、
あの運命のPK戦で終りました。
バッジョの、まさかのPKミス。
競技場にいた人も、テレビで観戦していた人も、
あの光景は永遠に忘れないでしょう。
バッジョが、はずした‥‥!?
残念ながらこれが事実でした。
イタリアの優勝はなりませんでしたが、
バッジョがはずしたのでは仕方ありません。
彼がいなければ、決勝戦まで進むことも
なかったかもしれないのですからね。

しかし、この呪わしいPK戦のトラウマは、
1998年のフランス大会まで
彼を苦しめることになりました。

さらに2002年、日本・韓国W杯の時、
シルヴィオ・トラパットーニ監督は、
バッジョを参加させる勇気を
持っていませんでした。
結果は、みなさんもご存じのように、
イタリア惨敗です。
バッジョがいなかったことだけが
原因とは言えませんが、もし彼がいたら、
と思った人も少なくなかったでしょう。


彼は永遠のチャンピオン。
ボールを蹴らなくなってもね。


ところで、最初に書いたテレビ番組では、
彼は将来について何も明らかにしませんでした。

「主になにをするかは、
 まだ決めていません。
 でも、ひとつだけ確実なのは、
 サッカー界そのものからは離れたくないと
 いうことです。
 サッカーは僕にとって大きな存在だし、
 僕の総てであり続けましたからね。
 言葉で表す以上のものかもしれません。
 僕の人生そのものでした」

彼は、こんなふうに語ったのでした。

サッカーが人生そのものであった彼が、
もうサッカー選手ではなく、
「もとサッカー選手」という立場なのだと実感するのは
難しいかもしれませんね。
でも「チャンピオン」としての実感は
失われないはずです。

「チャンピオン」は不滅です。
ボールを蹴らなくなってもね。
僕は、そう思いますよ。


訳者のひとこと

来るべき時が来てしまいましたか・・
時は流れ続けて2004年です。
また一歩おとなに近付くかたも、
できることなら時間を止めたいかたも、
新しい年を元気に歩き続けられますように、
あけましておめでとうございます!!
今年もよろしくご愛読くださいませ。
(うえ〜〜〜ん、バッジョ〜〜〜!!
 でも、今までありがとう、ですね。)

翻訳/イラスト=酒井うらら


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2004-01-05-MON

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