フランコさんのイタリア通信。 |
イタリアのスポーツ史における 「ライバル」について。 ライバル意識はスポーツにとって、 大きなバネの役割を果たしています。 ライバルどうしの熱い闘いがあってこそ そのスポーツを観戦する人を夢中にさせ、 多くの人が注目し、果てしない論議をたたかわせます。 たとえばイタリアの自転車競技では、 第二次世界大戦が終ってすぐのころ、 コッピとバルターリという ふたりのライバルたちが活躍しました。 かれらは全く異なるタイプでしたが、 いずれおとらぬ完璧なチャンピオンでした。 このふたりのどちらを応援するかで、 イタリアがまっぷたつに分かれたほどだといいます。 その結果、自転車競技はスポーツの中で何よりも注目され、 当時は人気ナンバーワンのスポーツとなり、 今でも高い人気をほこっています。
1948年のツール・ド・フランスでの バルターリの大仕事が、 市民闘争をしりぞけたと、 当時の論説は語っています。 こんな話です。 当時のイタリアは共和国になったばかりで、 王はポルトガルに追放されていました。 まだ激動の時代でした。 そして左翼である共産党の党首 パルミーロ・トッリャッティは、 国にたいしてある反撃を企てた、 つまり合法的に選挙でつくられた民主的な政府を ひっくりかえそうとしている、 という疑惑が持たれていました。 それがもとで1948年7月14日、 右翼の熱狂者がトッリャッティを狙撃しました。 共産党を支持していた多くのイタリア人たちが、 労働者階級を守ってくれる人と思っていた そのトッリャッティが襲われたのです。 トッリャッティの襲撃事件のニュースが ひろまるやいなや、 警察と、蜂起した群衆との衝突が懸念されました。 大きな工場の工員たちは、 この国の二大工業都市であるトリノとミラノの道路に、 バリケードをはって抗議する態勢でいたからです。 国のすべての危機管理組織に警告が出され、 何千人もの労働者たちが広場に降り立ち、 一触即発の状況でした。 そこへ「トッリャッティ死亡」の報せが届きます。 心配された衝突は現実となり、 数百人が逮捕され、けが人は250人を越えました。 イタリアの社会が騒然とする中、 ツール・ド・フランスでのバルターリとコッピの活躍した 忘れ難い一日のようすが、ラジオから流れました。 イタリア人自転車競技選手が 外国で見せた大活躍を知って、 イタリア人たちは誇りに思い、 彼らをほめ讃えました。 第二次世界大戦が終ったばかりの当時、 連合軍としてイタリアと闘ったフランスに対する イタリアのライバル意識はまだ大変に強かったのです。 バルターリがフランスを負かしたことは イタリア人に再び勇気をあたえ、 庇護者であったはずのトッリャッティの 死の衝撃を忘れさせました。 そして、勝利をもたらしたバルターリと、 彼を支えたよきライバル・コッピの 試合の展開の素晴らしさを、 人びとはともに分かち合い、賞賛しました。 この話は、いまだに子どもでも知っているくらいに 語り継がれているんですよ。 その年のツール・ド・フランスで、 このふたりのライバルどうしに何が起こったのでしょう? 実はふたりは大変に仲の良い友人どうしでもあり、 おたがいに尊敬しあっていました。 ここに、その日の一枚の写真があります。 上り坂で水の容れ物を手渡しているように見えますね。 「コッピがバルターリを助けた」ようにも見えますし 「バルターリがコッピを助けた」というふうにも見えます。 この一枚はいまだイタリアのスポーツ史上の 謎のひとつとなっています。 ライバルに水を贈る、この究極の行為について、 どちらがどちらを助けたのか? という議論は、 長い時を経てなお、結論の出ないままです。 当時は家庭の中でさえ議論になったということです。
さて時代は下って60年代、 サッカー界においてはユベントスとインテルという、 大きなライバル関係が誕生しました。 ユベントスは「力」を、 インテルは「反権力を」象徴していました。 ちょうどそのころ、 自転車競技界ではコッピ亡き後のバルターリが、 意欲をうしなっていました。 90年代に活躍したマルコ・パンターニが当時いたら、 バルトーリもまだ前進できたでしょうが、 彼の偉大さに匹敵する真のライバルは、 もうだれもいなかったのです。 サッカーにおいては、 ユベントスとインテルの、そのスポーツ的な反目は 今日にいたるまで続いています。 最近でも、選手購買の場であり、 イタリア人たちに夢を見させてくれる あの有名な「カルチョ・メルカート (サッカーマーケット)」の期間中は、 このライバル意識に焦点を合わせたような エピソードがマスコミをにぎわせます。 1月にはユーべと契約していたスタンコビッチが、 モラッティがもっと高額の契約金を示したことで、 結局はインテルに行ったという話題がありました。 いっぽうエマーソンは、 インテルではなくユーべに行きました。 ユーべの総監督であり イタリアサッカー界の最実力者とみなされる ルチアーノ・モッジが、 これまた同じ話ですが何百万ユーロだかの金に物をいわせ、 このブラジル人を説得したのでした。 そしてカンナヴァーロは、ユーべ以外なら どこへでも売ろう、とインテルは思っていましたが、 それぞれの監督であるマンチーニとカペッロの不仲の最中、 「ユーべ以外なら」と言っていたはずの まさにそのユベントスに納まりました。 カペッロとマンチーニのライバル関係は、 1981年にさかのぼります。 マンチーニがボローニャのユースで プレイしていた頃であり、 カペッロはすでにACミランの監督でした。 あるゲームの後、なにがあったか知りませんが このふたりは殴り合いのケンカをし、 その後は顔を合わせるのも嫌だ というくらいの不仲となりました。 これは良きライバル意識とは言えないかもしれませんね。 もっかユベントスは選手権で1位です。 インテルは落ち込んでいます。 12ゲーム中、勝利はたった2回で、 残りの10ゲームは引き分けです。 そして来る11月28日の日曜日、 このふたつの宿敵どうしはミラノで対戦します。 早い時期から、競技場は超満員だと言われています。 イタリアのサッカー界で最も伝統的な このライバルどうしの対戦のチケットは、 すでに完売しており、 チケットを正価の2倍、3倍で 転売して儲けている者さえ、もう現れました。 インテルのオーナーであるモラッティは、 数年前に誰あろうルチアーノ・モッジを、 総監督として契約しようとしていました。 彼がモラッティの誘いにのらずユーべに残ったことで、 このふたりの反目もいっそうきわだっています。 モラッティは、 彼のインテルがユーべを叩きのめすのを見るためなら、 金に糸目はつけないでしょう。 ルチアーノ・モッジも、 彼のユーベがインテルに快勝するところを見られるなら、 給金を、何ヶ月分かは想像がつきませんが 放棄してもよいと思うくらいに、燃えているでしょう。 試合中の試合ともいうべきこのゲームは、 世界中で放映されるでしょうが、 地元のイタリアは二つに分かれることでしょう。 ずっと以前のコッピとバルターリの時のように。
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2004-11-22-MON
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