フランコさんのイタリア通信。
アズーリにいちばん近いイタリア人の生活と意見。

そりゃないぜ、ロナウド君。

レアル・マドリードのロナウドにとって、
去る3月9日水曜日の夜は、
簡単には忘れられない夜の
ひとつとなったことでしょう。
トリノでの対ユベントス戦というのが、
彼にとってはことごとく嫌な思い出に
なっているわけですが、
今回のUEFAチャンピオンズ・リーグの
決勝トーナメントが、
「またか!」という結果に終ったからです。

「審判はインテルびいき」という
ロナウドの発言が‥‥。


7年前、彼はインテルの選手でした。
その時インテルはイタリア・リーグ戦、
カンピオナートの優勝のしるしである
スクデットをかけて闘っていました。
相手はユベントスです。
その試合が、彼の苦々しい反ユベントス的感情の
始まりとなりました。
なにが起きたかというと、
チェッカリーニ審判が
ユベントスのイウリアーノ選手のファウルによる
インテルのペナルティ・キックを認めなかったのです。
結果として、そう、インテルは負け、
ユベントスがスクデットをさらっていきました。

試合の後でロナウドはテレビカメラに向かい、
ユベントス相手にはイタリアのチームのどこも
勝つことはできない、なぜなら
審判たちが臆面も無くユベントスを支持するからだ、
と言ってはばかりませんでした。

彼のこの発言はスキャンダルとして大騒ぎになり、
スポーツ審査員は彼を2日間の出場停止にしました。
インテルの鼻先からスクデットを勝ち取った
ユベントスでしたが、ユーべと
ユーべの総てのティフォーゾたちは
自分たちを悪しざまに公言したロナウドを、
敵の筆頭とみなすようになりました。

それが1998年4月のことで、
その後、ロナウドは数々の負傷をし、
レアル・マドリードに移籍してからは2回、
試合をしにトリノに来ています。
トリノに来る、ということは
ユベントスと対戦するということです。

2年前には
レアルが2対0で負けかけていた時に、
モンテーロのファールによる
ペナルティ・キックを得ましたが、
負傷したロナウドは
試合の半分しかプレイできませんでした。
しかも、このペナルティ・キックは
フィーゴがはずしました。

こうしてこの年のUEFAチャンピオンズ・リーグから
レアル・マドリードは敗退し、
ロナウドはトリノのデッラ・アルピ競技場から、
からだ中に怒りをみなぎらせて退場していったのです。



ロナウド、再びうちひしがれる。
そしてまさかの発言?!


さて2005年3月9日水曜日、
舞台はふたたびUEFAチャンピオンズ・リーグです。
彼は雪辱をはたせるかに見えました。
レアルはユベントスとの1回戦を勝っており、
トリノでの2回戦も引き分けにできそうな感じでした。

ところがユーべのトレセゲがゴールを入れて、
試合の様子は一気に変わります。
ロナウドが本当の意味でレアル側の唯一の
危険人物だったのですが、
タッキナルディに対するリアクションでファールを犯し、
審判が出したのはレッド・カードでした。
ロナウド、タッキナルディ、ともに退場です。
この対戦は合計点でレアルをおさえたユーベが勝ち、
同時にレアルは
UEFAチャンピオンズ・リーグから敗退しました。

ロナウドは、ふたたびトリノの競技場から、
負けて、うちひしがれて、怒りにみちて退場です。

彼は試合のあとで、またもや、
ユーべは審判たちから特別に守られているチームだと
言い張りました。

「イタリアでユーべを負かすのはほとんど不可能だ、
 ユーべはひいきされ続けている」と。

そして唐突にも、彼はこう言い足しました。

「レアル・マドリードは
 ぼくにとって居心地がいいけれど、
 もし移るとしたらインテルにもどりたいな」


今となってはすべてが
変わってしまったんだよ。


いや、それは無理でしょう、ロナウド君。
インテルのティフォーゾは、
全員とは言わないまでもその多くは、
もはや君を愛していないと、ぼく、フランコは思うよ。

2002年6月、横浜で、
ロナウドはドイツ代表に向かって
2本のゴールをたたきこみ、
ブラジルがW杯に優勝しました。
その試合の後で彼はテレビをとおして
たくさんの人に感謝の言葉をおくりました。

ブラジル代表の仲間たちに、
Psvやバルセロナの責任者たちに、
彼が所属したことのあるヨーロッパのチームに、
ロナウドは感謝しました。
ブラジルのクルゼイロに居た時のことを
話したりしましたが、当時彼が所属していた
イタリアのインテルについては
ただの一言もいわずに終りました。

確かに当時のインテル監督のクーペルと彼は
仲たがいしており、不満があったかもしれませんが、
インテルの「イ」の字すら彼の口から出なかったことは、
インテルの側としては当時の会長モラッティから
ティフォーゾの末端にいたるまで、
全員があぜんとして、気を悪くしたのです。

そしてその6月の夜からロナウドは、
インテルを離れる準備を始めたのでした。

事実上、彼はレアル・マドリードに身売りし、
インテルのティフォーゾの大多数が、
裏切られたと感じて彼を嫌悪しはじめました。

彼らは事故のあともロナウドを待ち、
その回復を望み祈りつづけたのですが、
ひとたびW杯に優勝した後は、
ロナウドはまるで知らない人のようになってしまったと
彼らは感じたのです。

彼のサッカーの詩的で優しい表現や、
ボールを足にとらえた時に見せる
果てしない想像力は人びとを魅了し、
イタリアでも彼は誰もに愛されたものでした。

でもね、今となっては
すべてが変わってしまったのですよ。

またもやユーべに負けた彼は、
もう強そうには見えないから要らないのかって?
いいえ、それ以前の、もっと単純な理由で
イタリア人たちは彼に「帰っておいで」とは
言わないのです。
その場しのぎのすべり止め的な選択じゃないのか?
と、ななめに見てしまうのです。

だって、W杯の主要選手の座を勝ち取り、
世界一の人気も実力もある選手になった時に
イタリアを出て行ってしまったのに、
そのキャリアにかげりが見え始めた今、
戻って来たいと言われてもね。


訳者のひとこと
冷静に読むと、これはいろいろな意味で
怖いですねえ。
可愛さあまって憎さ百倍ということも
あるのでしょうが、
イタリアやスペインの強烈な日射しを
思い出しました。つまり
光の強いところでは影も濃いという、
あの環境がはげしい気質をつくると
言ってもよいのではないでしょうか。
翻訳/イラスト=酒井うらら

2005-03-14-MON

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