震災からようやく1年が過ぎようとしていた 取材を終えた日、 けれども、できなかった。 何度も書きかけてやめた、 2012年3月5日。 糸井重里がツイッターを通じて その日、いくつかの場所で、 車は相馬市での取材を終えて南相馬市へ移動していた。 被災地の風景は知っているつもりだった。 厳しい風景が目の前に広がりそうなとき、 自分の意識を、自分の身体からちょっと切り離す。 そんなふうにして その場所へ移動する前、 市役所の人は、 ほら、このあたりです、 「──ここが、磯部地区です」 走る車の中で大和田さんがそう言ったとき、 窓の外には、なんにもなかった。 |
かつて、そこに海沿いの町があって、 かつてあった街の気配。 津波が、ぜんぶもっていってしまった。 |
心を切り離して身構える余裕がなかった。 |
車は磯部地区を過ぎてさらに南下し、 「このあたりはまさに壊滅状態です」 「通りに逃げた人は、全員、亡くなりました」 「あの建物の上まで、水が来たんです」 |
大和田さんの案内で、車は海沿いにある高台をのぼった。 大和田さんは、 車が停まり、ぼくらは降りる。 大和田さんがそこに歩み寄り、 |
「震災のあと、このあたりを取材しているとき、 大和田さんは、ことばを飲み、 雨のなか、ぼくらは無言で、 撮らせていただきます、という気持ちで |
見晴らしのいい、海沿いの高台。 |
「見てください、この高さですよ」と大和田さんが言う。 |
信じられない。 降りしきる雨がいよいよ冷たくて、 雨と風と傘で視界が十全でないことが、 小さなお墓にもう一度手を合わせて、 |
海から内陸へ1キロ行ったところに、 「つぎに行く場所は、 高齢者が余生を過ごすために立てられたその施設では、 36人のお年寄りが亡くなった。 祭壇に手を合わせ、なかに入る。 |
身構えても、身構えても、 糸井重里が、ぼくに言った。 |
まだ生々しい、泥のあと。 |
なかのものはすべて運び出されている。 |
写真を撮りながら、つい、感情が動いて、 機械的に写真を撮っていたけれど、 |
うねり出しそうな気持ちをぎゅうと引きはがした。 どうして、写真はそのまま残っているのだろう? |
案内しながら、大和田さんが言う。 海から1キロ。なだらかな平地。 大和田さんが言う。 海から1キロ離れた場所にある平和な老人ホームは、 |
写真を撮っていた三浦さんが、唇を噛みしめる。 「家が、役に立っていない。 自分のやってきた仕事は |
最後に、南相馬市の萱浜(かいはま)地区を訪れた。 大和田さんが、もっとも強く、 午前中にはじまった取材は、 |
車のなかで、大和田さんが、 「ご覧のように、このあたりは壊滅です。 上野さんは、ご両親と、 上野さんはJAにお勤めされていたんですが、 現在は、捜索を続けながらも、 「少しだけ高い場所にあったおかげで、 ところが、祭壇に手も合わせず、 それで、上野さんは、マスコミが大嫌いなんです。 あれから1年が過ぎて、 大和田さんのことばを聞きながら、 雨に煙る鼠色の風景のなかに、 「このあたりは、 |
雨のなか、ぼくらは降りる。 大和田さんのあとを追って、 そこに、祭壇がある。 家族の写真。 個人的な話になるけれども、 こらえることをあきらめるほど、 とりわけ自分の感情を突き動かしたのは、 そういうものは、うちにもある。 悲しみのなかで、ただただ手を合わせた。 |
玄関から向かって右側に |
上野敬幸さん。38歳。 壊滅状態となったこの地区で、 「ずーっと、置いてけぼりですよ」 簡単な挨拶のあとで、上野さんは言った。 「どうしても、福島県、南相馬っていうと、 ずーっと、置いてけぼりですよ。 もう、1年経つけど、ぼくとしては、 震災直後、上野さんたちのところにあったのは、 「ぼくら、その、『復興』って言われてもね‥‥。 行政も、農地を復興しましょうとか、 ほんとうにここにいるのがいいのか、とも思うし。 大人はもう、しょうがないというかね、 自分の身体はどうだっていい、 だから、家族をなくしてるひとたちっていうのは、 このあたり一帯は、田んぼや畑が多く、 「俺の家も、専業農家でね。 どの切り口からの話も、 「なんにもやってないのに、 水中ポンプで水抜けば、すぐ見えるのに。 家族が行方不明だったらね、 ここで行方不明になって、 上野さんは消防団員だったから、 「こっちで流されてる人、助けてたよ。 上野さんの目から涙があふれ、 「上野さんは、地震のあと、 上野さんは、何度その場面を、悔やんだのだろう。 「ぼくが、家族がいないっていうのを知ったのは、 だから、俺は、親としては‥‥ やっぱり、自分をね、責めてる。 捜索だってね、 ここへ来る道中、大和田さんが言っていた。 「昨日のことのように思い出すんです。 なかなかね、その子どもたちのために、 復興することが大事だっていうのは、 それは、たぶん、ぼくだけじゃない。 こう言っちゃ、なんだけど、 だから、ずっとね‥‥ たとえば、それが5年後なのか、10年後なのか、 だから、なんだろう、 部屋中に深い悲しみが満ちて、 おそらく、何度も何度も思いをめぐらし、 糸井重里は、上野さんの正面に座り、 糸井重里は、別れ際に、上野さんの手を握り、 「どうか、ご自分を責めないでください」 たぶんそれは、 「どうか、ご自分を責めないでください」 |
しばしば、ぼくらは、ことばを失う。 言うべきことばがない。 でも、胸の中に、 |
震災のとき、 上野さんと上野さんの奥さんは、 悲しみは、それとは違う次元で、 それこそ、 |
大和田さんに聞いた話。 震災後、ひとりで捜索を続ける上野さんを慕い、 「生きたいとは思わない」と上野さんは言った。 去年の夏の終わりには、 138人の方を忍ぶ、 終わりに、きれいごとばかりは書けない。 |
帰りの車のなかで、 悲しい話だった。 ずっと、涙がとまらなかった。 子どもを失うというあまりにも悲しい場面を、 ぼくと同じように小さい子どもを持つ小池も この日、ぼくは、自分の人生において、 あとからあとからあふれてくる涙をふきながら、 これから先、ぼくが悲しみに接したら、 それがなにを意味するのか、よくわからない。 |
この記事をいままで書くことができなかったのは、 すごく悲しい話を、そのまま書いていいものだろうか。 だいたい、どうして、いま書く必要があるのか。 「書いたほうがいい理由」と しかし、あるとき、ふと思った。 そうでないと、ぼくらはことばを失うばかりである。 なにかをやろうとするとき。 たぶん、ぼくは、そういったことがいやだったのだ。 すごく大げさにいえば、 それで、ようやく、ここまで書くことができた。 まだ迷いながらではあるけれども、 おしまいに、新しく自覚しているのは、 長く書きました。 |