保坂 |
何ていうか、
本って、開かないと何にもないわけでしょ?
本を開いて、一字ずつ追っていく中にしか、
小説というものは、ないわけでして……。
誰かがどこかで読んでいる時だけ、
その小説は、存在しているのであって。
レコードが、置いてあるだけでは
意味がないのと一緒で、
ドストエフスキーの『罪と罰』にしても、
今、この時間に世界中で誰かが読んでいるから、
まあ、三千冊ぐらい存在しているわけですよね。
小説って、そういうものだと思うんです。
だから、どう読まれるかは、かなり気をつけてる。
ただ、「こう読んでね」って、
すり寄る小説があるじゃない?
それは、しない。
それとは、ぜんぜん、別なんですけどね。 |
糸井 |
「こう読んでね」
って言うことは、言葉で話している相手に、
「こう聞いてね」
って言うようなもんですから。
……今、保坂さんに聞いた話って、
小説を実際に読む前に知ってたほうが、
圧倒的におもしろいね。
連れていかれる場所がわからないままに、
保坂さんの小説って、
読まれていたような気がするんですよ。
欠点なのか、特長なのかわからないけど、
「この人は、どこに連れていくんだろう?」
っていう不安が、保坂和志の小説を、
どうしたらいいかわからないと、みんなに
思わせているような気がするんですね。
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保坂 |
そう思われている部分、多いと思います。
まず、いけないのが、
本の解説でも、評論家の評論でも、
読み終わった前提で書くでしょう?
全体の筋は言わないにしても、
ある程度、読み終わったという前提で、
解説に、小説の「構成」を書くんですよ。
だから、書評を読んだ後に
本を手にとる人も、どうしても、
小説の構成を、察知したくなるわけ。
ところが、書いてる本人は
構成が何もないわけだからさ。
あるイメージを立ちあげるための何か、
それはきっと、どこかの山に向かって、
ぼくは、ひたすら、のぼっているんです。
わかんないんだけど、とにかく。
気がついたら、自分でも
山をのぼりだしているし、
どこまで行ったら頂上に辿り着くのか、
その山がどういうものなのか、
ぜんぜんわからずに、ひたすらのぼっている。
ぼくが小説を書くって、そういう感じなんです。
だから、小説っていうのは、
構成でもストーリーでもなくて、
「読んでいる時間のなかにしかない」って、
わかってもらわないと、
ぼくの小説を読む読み方が、
みんなにとって、不安になっちゃうわけで。 |
糸井 |
そうだ、たしかに。 |
保坂 |
小説っていうのは、
「読みおわった人がまだ読んでない人に、
持ち運んで再現できるようなもの」
だと思っていると、
ぼくの小説を読んでいる最中に
不安になるんだけど、小説なんて、
読みおわったら、残っていないんです。
かすかなものしか、残っていないわけで。 |
糸井 |
「小説の記憶」だけが、あるわけね……。 |
保坂 |
そうそう。
「読んだ!」っていう満足感とか。
でもほんとうは、読み終わっちゃったら、
何もないわけですよね。
「その中にいるときしかない」ものだから。 |
糸井 |
そのことは、言ってもらえば、
わからないことじゃないよね。 |
保坂 |
わからなくはないでしょう?
だから小説書いてる時の保坂和志と、
書いていない時の保坂和志は違うから、
書いている期間は、小説を書いてる人ですけど、
完成したら、小説を書いている保坂とは別人……。
最近ではもう、ほんとに割り切って、
自分でもはっきりわかったので、書きおわると、
小説家保坂のマネージャーになるんですよ。 |
糸井 |
なるほどね。
「わかってやってくださいよ」って。 |
保坂 |
そういう感じなんです。 |
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(つづきます!)
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