ほぼ日 |
この本を書いた目的の
大きな部分を、教えてくださいますか? |
保坂 |
ぼく自身が『プレーンソング』という
小説を書いたのが八八年で、
デビューが九〇年で、八八年って
ぼくが三一歳から三二歳の頃なんですけど、
それまでは、何してたかっていうと、
どう書いていいか、
ずっと考えていた期間だったんです。
ぼくにとっては、その何年間っていうのは
ムダじゃなくて、
ぼく自身の大学からの十年間、それが、
「ちゃんと書きあぐねていた期間」
なんだけど、
それを経験した人間として、
その十年のことをしゃべれば、
それをきちんと受けとめた人には、
ぼくが十年かかったものが、
一年か二年には短縮されるんじゃないかなというか。
そういう本になればいいという気持ち
って、いえばいいのかな。
たとえば新人賞の選考会って
すごく保守的なんですよ。
みんな選考委員として、勇み足みたいなことを
しちゃうことを恐れているから、
冒険的なものじゃなくて、
安定したものが選ばれる空気が支配している。
だから、書く側が、
「いわゆる小説」とされるものに合うように
普通の小説を書いていたって、
芥川賞の候補になったり、
芥川賞を取ったりすることもできるんだけど、
大事なことは、
芥川賞がエライわけではない
っていうことなんです。
芥川賞っていうのは、
商業的に名が知れてるだけであって、
たかだか新人賞ですから……つまり、
小説を書くのに、人が通ってきた道を
そのまんま行っても意味がないんだけど、
その程度で、芥川賞くらいは取れる。
しかし--ここが大事なんだけど--、
そういう小説で芥川賞を取った人は、
十年後にはいなくなっているんです。
ぼくがこの本を通して伝えたいことの一つのは、
「人の通った道を歩くな。
しかし、その人の苦労の仕方は見習ってくれ」
っていうことですよね。
それから、もうひとつ、
家庭環境や友達や進路のせいで、
ずうっと小説に無縁で大人になった人って、
けっこういますよ。
理科系とか--理科系なら小説読まなくていい
っていうのはおかしいんだけど、日本では
そういう風潮があるでしょ。
それから、写真やってる人とか。
小説に触れないままきて、
あたりまえだけど、小説を書こうなんて
まるっきり思わずに、
別のところに行っちゃう人がいると思うんです。
そういう人たちに、
「小説は文学少年・文学少女のなれのはてが
書くもんじゃない。
小説とは、日常と別の思考や感受性を
この世界に持ち込むもんなんだ」
っていう意味の本でもあって……。
本音を言えば、そっちのほうが強いかもしれない。
小説って、重ったるい感じというか、
なんかうっとうしいオヤジが人の話を聞かないまま
そこにいるような印象があるじゃない。
実際、八〇年代までの文芸誌って
そういうものだったし。だから、
小説に触れないまま、
小説にネガティブなイメージを
持っている人は多いと思うんです。
そういう人が
たまに本屋に行って小説を手にとったら、
辛気臭いものにあたっちゃったりする。
その後、二度と読まなくなる可能性もあるもんね。
そういうマイナス宣伝の効果って、
けっこうこわいですよ。
もっとたくさんの人に
小説の世界に入ってきてほしいっていう気持ちは、
すごく強いんです。
なにしろ、文学育ちの人の書く小説が
一番つまらないんですから(笑)。
このままだったら、
人材不足で小説が先細りになっちゃう。
それは世界的な問題だと思うんですけど。
だから、
「もっと無能な人だって食えてるから安心しな」
って言うと同時に、
「三〇年間やり続けるに値する仕事だ」
とも言っているんです。
小説を発表すると、
すごい心ない評価だとか、
とんちんかんで評価ともいえないような評価を
書かれたりもするけれど、
そういう評価も含めて、
一生評価にさらされる仕事って少ないんですよ。
サラリーマンになると、
やっぱりどうしても閉じた世界だから、
自分に関する評判って、
そんなに聞かなくなるでしょう。
三〇歳ぐらいになって、会社の中で
一定のポジションにつきだすと、
普通はもう評価が
聞こえてこなくなっちゃうんだよね。
評価ってものがなくなっちゃうんですよ。
会社の世界は狭いから、
ちゃんとした批判も言いにくいし。
でも、小説家にはその評価がついて回る。
小説家になって、そういう
「批判されること」に慣れていくっていうのも
また、いいんだよね。 |
ほぼ日 |
『書きあぐねている人のための小説入門』は、
小説家志望者に限らず、
発想のヒントになる本だと思って読みました。 |
保坂 |
確かに、小説を書きたい人だけじゃなくて、
例えば、何かを教える立場に立っている人にも、
ヒントになるんじゃないかっていう
気はするんです。
ただ、
そういう他の分野の人のヒントになるものは、
今までの『アウトブリード』とか
『言葉の外へ』っていうエッセイ集が
割合、そういう役割を果たしていると思うんです。
実際、美大の人とか音大の人とかが、
ぼくのエッセイをたくさん読んでくれているんで。
だから今回は、
小説に的をしぼったほうがいいかなと思った。
小説をやろうと思っている人たちが、
いちばん頭が固いんですよね。
他のジャンルからの応用がきかないし、
卑屈さとリスペクトがごっちゃにもなるし。
学校で本を読むときには、
筋とかテーマとかいった枠組みで
まとめるように訓練されちゃってるんですよね。
やっぱり、
それをやっていても小説なんて書けなくて、
だから
「なんか、おもしろい部分だけ、
線をひっぱったり、
ページを折っていったりするけど、
なんか全体としてはよくわかんなかった」
みたいな人の方が、小説家には向いているんです。
なんとなくここがおもしろい、とか、
部分にばかり目が行く人の方が、向いてますよ。
だって、全体として
この小説を通して言おうとしていること、
なんていうのは、
書き手本人がいちばん考えていないんだから(笑)。
そういうことから自由になったときに、
小説を書けるようになるんですよね。
もちろん、小説全体のことは気にしているけど、
それは、オーケストラの曲の中に、
突然室内楽は入ってこないとか、
ロードレースを走っているんだから
急にトラック競技になったらまずいとか、
そういう大きな乱れが混入しないか気をつけている
だけなんですよね。
乱れずにずっと続いていけば、
作品にはなるんですよ。
作品を書くときに気にしているのは、
今書いている場所だけで十分だと思うんです。
そのつど書いている場所というのは、
前から続いてきている場所で、
それまでの流れを受けての今ではあるんだけど、
それはもう気分みたいなものになっている。
ただ、そうやって今だけ気にして書いていると、
全体が自然な流れになるというか……。
いきなりあぜ道にコンクリートが
横切るみたいなことにならなくても済むような。
全体の構成とかを、前もって作っちゃうと、
今のその場の流れを考えることを、
そこそこでやめちゃうんですよね。
全体の構成を先に作っちゃうと、
「まぁこの程度でいいや」
っていって次を書いていっちゃう。
そうすると、その「この程度」というのが、
すごくありがちな心情説明とか驚嘆の仕方とかで、
だから例えば、痛感したときに、
「やっぱり人間は遺伝子で決められているのだ」
とか、そういうことを書いて、
読者に痛感ぶりが伝わらないことになっちゃう。
例えば痛感するなら、
ちゃんと痛感したらしい言葉を、そこで、
考える必要がある。
自分はそれなりに考えたんだけど・・・、なんて、
そんなの考えているうちに入らない。
それからもうひとつね、
書いてると、やっぱり何か
ちょっとヘンだなと思うところとか、
あるんですよね。
これはヘンだし違うんだけど、
他のものは出てこないっていう箇所が
いくつかあるはずで、そういうところは、
やっぱり、書き終わるまで、ずうっと、
ひっかかるはずなんですよね。
そういうものは忘れないように
気持ちの中でチェックし続けているから、
いつかハッと気がつくんです。
そういう過程が、小説を書くための技術というより、
粘りとしてすごく大事で、
全体を先に決めていて、
次の部分を早く書こうと思って
そこそこでやめていると、
作品も書いているその人自身も、
本当に、そこそこにしかならないんです。 |
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(つづきます) |