時間と空間と中枢神経の映画。
鈴木敏夫さんと

無邪気に語る。

第4回 「また、観なきゃ」
って思う

鈴木 少し専門的な話なんですけど、
実は押井さんの映画だろうが、
宮崎駿の映画だろうが、日本のアニメには、
あるひとつの、大きな特徴があるんです。

レンズが、真ん中は標準レンズなのに、
まわりにいくにしたがって広角レンズになる。


だから、西欧人が観たときに、
日本の絵やアニメのレイアウトってヘンなんです。
歪んでいるけど、まんなかだけ普通なんですから。

マトリックスを作った方たちは、
何に着目したかっていったら、その「歪み」で。
 
糸井 へぇ、なるほど。
鈴木 そういう構図の映像を実写で作っちゃったら、
みんなびっくりするに違いない、と。
だから彼らは、セットを、
カットごとに、歪ませて作っているんですよ。
 
糸井 それは、ゴッホが
浮世絵を模写したみたいなことですね。
 
鈴木 ええ。
要するに、西欧人が見たこともない空間が、
あの『マトリックス』の世界にはある。
だから、世界が、びっくりしたんですし、
めずらしいタイプの映画になったんです。
たぶん、セットを観にいかれるとおもしろいですよ。

『マトリックス』は、
シリーズを重ねるにつれておもしろくなくなった、
とお客さんが感じたとしたら、それは、
新鮮だった歪みの連続に、目が慣れたからなんです。
 
糸井 ええ。
たしかに、耳からの情報処理って、
日本人が描いた絵みたいになっていますよね。
中心部分の、自分にとって
意味内容が重要なものだけは聞こえて、
たとえば今、時計の音は聞こえていない。

耳の情報処理と同じようなかたちで
視覚を処理すると、
日本のアニメーションになる、ということ?
 
鈴木 そうだと思います。
だから、たとえば『千と千尋』でも、
千尋ががんばっているうちに、
最初は2階にいたのに、
次のカットで3階に移動していたりする。
宮さんに指摘したら、本人も、
「あれ?」って言うんですよ。
「でも、もういいじゃない?」って。
そういうことに対して平気でいられる視覚なんです。
 
糸井 そういう
「もういいじゃない?」って、
自分の中にもある感覚ですよね。
 
鈴木 あります。
それが日本人のすごくいいところだし、
よくない部分でもあるんだと思う。
 
糸井 ぼくもそう思う。
そこで「もういいじゃない」って言わずに、
また2階にしようっていう外国人の姿勢も、
「いいな」って感じられるから。
 
鈴木 (笑)だから外国人ってクドイですよね。
そういうことにおいて、ものすごい厳密だから。
 
糸井 うん。ぜんぶ説明できると思ってるんですよね?
 
鈴木 外国の人は、そういうところがすごいんです。
モノは何でも、ちゃんと立体で作ろうとするし。
 
糸井 ええ。
感覚で言うと、例えば
学者には、松井孝典さんっていう人のように、
「二六億年前と二七億年前は、
 ぼくの中では違う感覚でとらえられます」

って断言できる人も、いますよね。
「そうでないと、学者ができません」って。

『イノセンス』を観ていると、
そういうことも、思い出したんです。
処理できない速度でものを考えさせられることで、
クラクラしながら、映画を見終わるんですよね。


起こっていることの構造は、
「ナゾがあってそれを解決する」
という単純なものになっているのに。

だけど、その単純な構造の表層を漂っている
哲学的な会話を知りたいと思っていると、
画面と違うことを考えなければいけなくなっちゃう。
そういう感覚のおもしろさを、受けとったんです。
 
鈴木 「孤独に歩め」とかいうセリフがあったり。
 
糸井 (笑)そう。
やっぱり、この映画はすごいような気がしてきた。
だから、「また、観なきゃ」って思うんですよね。
 
鈴木 ええ。ぜひ、もう一度、観てください。
 
  (明日に、つづきます!)


『イノセンス』についてはこちら。

2004-03-02-TUE


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