鈴木 |
少し専門的な話なんですけど、
実は押井さんの映画だろうが、
宮崎駿の映画だろうが、日本のアニメには、
あるひとつの、大きな特徴があるんです。
レンズが、真ん中は標準レンズなのに、
まわりにいくにしたがって広角レンズになる。
だから、西欧人が観たときに、
日本の絵やアニメのレイアウトってヘンなんです。
歪んでいるけど、まんなかだけ普通なんですから。
マトリックスを作った方たちは、
何に着目したかっていったら、その「歪み」で。
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糸井 |
へぇ、なるほど。 |
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鈴木 |
そういう構図の映像を実写で作っちゃったら、
みんなびっくりするに違いない、と。
だから彼らは、セットを、
カットごとに、歪ませて作っているんですよ。
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糸井 |
それは、ゴッホが
浮世絵を模写したみたいなことですね。
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鈴木 |
ええ。
要するに、西欧人が見たこともない空間が、
あの『マトリックス』の世界にはある。
だから、世界が、びっくりしたんですし、
めずらしいタイプの映画になったんです。
たぶん、セットを観にいかれるとおもしろいですよ。
『マトリックス』は、
シリーズを重ねるにつれておもしろくなくなった、
とお客さんが感じたとしたら、それは、
新鮮だった歪みの連続に、目が慣れたからなんです。
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糸井 |
ええ。
たしかに、耳からの情報処理って、
日本人が描いた絵みたいになっていますよね。
中心部分の、自分にとって
意味内容が重要なものだけは聞こえて、
たとえば今、時計の音は聞こえていない。
耳の情報処理と同じようなかたちで
視覚を処理すると、
日本のアニメーションになる、ということ?
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鈴木 |
そうだと思います。
だから、たとえば『千と千尋』でも、
千尋ががんばっているうちに、
最初は2階にいたのに、
次のカットで3階に移動していたりする。
宮さんに指摘したら、本人も、
「あれ?」って言うんですよ。
「でも、もういいじゃない?」って。
そういうことに対して平気でいられる視覚なんです。
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糸井 |
そういう
「もういいじゃない?」って、
自分の中にもある感覚ですよね。
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鈴木 |
あります。
それが日本人のすごくいいところだし、
よくない部分でもあるんだと思う。
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糸井 |
ぼくもそう思う。
そこで「もういいじゃない」って言わずに、
また2階にしようっていう外国人の姿勢も、
「いいな」って感じられるから。
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鈴木 |
(笑)だから外国人ってクドイですよね。
そういうことにおいて、ものすごい厳密だから。
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糸井 |
うん。ぜんぶ説明できると思ってるんですよね?
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鈴木 |
外国の人は、そういうところがすごいんです。
モノは何でも、ちゃんと立体で作ろうとするし。
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糸井 |
ええ。
感覚で言うと、例えば
学者には、松井孝典さんっていう人のように、
「二六億年前と二七億年前は、
ぼくの中では違う感覚でとらえられます」
って断言できる人も、いますよね。
「そうでないと、学者ができません」って。
『イノセンス』を観ていると、
そういうことも、思い出したんです。
処理できない速度でものを考えさせられることで、
クラクラしながら、映画を見終わるんですよね。
起こっていることの構造は、
「ナゾがあってそれを解決する」
という単純なものになっているのに。
だけど、その単純な構造の表層を漂っている
哲学的な会話を知りたいと思っていると、
画面と違うことを考えなければいけなくなっちゃう。
そういう感覚のおもしろさを、受けとったんです。
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鈴木 |
「孤独に歩め」とかいうセリフがあったり。
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糸井 |
(笑)そう。
やっぱり、この映画はすごいような気がしてきた。
だから、「また、観なきゃ」って思うんですよね。
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鈴木 |
ええ。ぜひ、もう一度、観てください。
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(明日に、つづきます!) |