糸井 |
石坂さんが
有名になったのは
『太閤記』だったんですか?
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石坂 |
いわゆる世の中に
わりと知られるようになるのは、
やっぱりさすがにNHKに出たからです。
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糸井 |
もう一個、
なにか主演もやってませんでした?
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石坂 |
しばらく経ってから
『天と地と』で上杉謙信役をやりました。
あれが大河ドラマの、カラー第一作。
『天と地と』では、ディレクターは
ぼくのシーンだけ残して撮りなおしてくれて。
先輩の役者さんたち、
つきあってくれましたからね。
このあいだ、
『元禄繚乱』(一九九九年)をやった時、
私(吉良上野介)の息子役が滝沢秀明で、
彼も「お残し」をしていたから、
つきあいましたよ。
私も、立ち方が悪いな、
そこで立ったほうがいいよとか、
言えることもあるから。
大河にはまだそういう
いい伝統が残っているんだと思った。
若いやつが出てきたら、
みんなで盛りたててやって、
なんとかおぼえさせてやる……。
ただ、最近はとんでもない人を起用するから、
スケジュールが合わなくて
たいへんな思いをしているよね。
まぁ、それはそれでいいんだろうけど。
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糸井 |
民放には、残して、
演技指導をやるほどの
伝統はなさそうですね、なんか。
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石坂 |
やらないね。
民放はヘタな役者はヘタなりに放っぽっちゃう。
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糸井 |
石坂さんが
役者をやりはじめた時代の人たちっていうのは、
往々にして、ものすごく
しゃべっていたみたいですね。
演出家も、スタッフも。
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石坂 |
すごかったですね。
語りまくってました。
仕事以外の方が記憶に残っているぐらいだもん。
あんなこと言ってたなぁとか。
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糸井 |
その伝統も石坂さんにはついていて、
今も、スタッフと、
ものすごくしゃべっていますよね。
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石坂 |
それはやっぱり、
昔のスタッフと一緒に
しゃべりながら作ってたクセが抜けない、
っていうのがある。
赤坂寮で、みんなで「万歳」なんて
やってる毎日だったから、
彼らが考えていることもわかるんですよね。
これまでの経験からして、
芝居はこうした方がいいよ、
と思うこともあるから、
やっぱりついスタッフ寄りになって
一緒に話すことになるんです。
ぼくのマネージャーをやってくださった
吉田史子さんという方もそういうタイプでした。
帳簿もつけてなくて、どんぶり勘定だったけど、
私にはよかったんです。
「こういう仕事をしたほうがいいよ」
「これはおもしろいからやったほうがいいよ」
「これをやっておくと、のちのちいいよ」
そういう仕事の取り方だったから。
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糸井 |
プロデューサーができるマネージャー。
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石坂 |
うん。
だけど、
「こういう影のある主人公がいいんじゃないか」
とテレビ局に持ちかけたりしている上に、
来た仕事はいっさい断ってしまうから、
誰も仕事をくれなくなっちゃうという
おそれはあったんだよね。
あとから考えると、ドキドキする方針だけど。
ただ、こう言ってくれていたんです。
「私はいくつになったら
京都で悠々自適の暮らしをするから、
あんたたち、その時は勝手にやんなさいよ。
勝手にやれるまではがんばるから」と。
でも悠々自適の前に、
四十いくつで亡くなって……
あれは残念だったと思います。
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(つづきます)
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