こどもの偽ウォークマン。(その2)
寄り道、迷い道は、おいらの持ち味さ。
前回は、悪かったね。
こんどこそ、パチンコの景品の話からはじめよう。
もう、5〜6年も前のことだ。
ぼくはいつものようにパチンコをした。
このころのぼくのパチンコというのは、
絶対に換金しない遊びだった。
いくら玉が出てもお金には換えない。
いまのように、何連チャンとかしなかったから、
よっぽど出たときでも
せいぜい5000発くらいだった。
1個4円の玉を5000発だと、
約2万円くらいの景品と交換できる。
ぬいぐるみももらった。傘も獲った。
スナック菓子も電池もいっぱい獲った。
ライターも、電気カミソリも、
CDもビデオテープも、タバコも、
イヤってくらいもらったら、
だんだん欲しい景品がなくなってくる。
だから、みんな、
なんにでも換えられる貨幣にして
ストックするわけだよね、
獲得した「ごほうび」を。
パンツも、お茶漬け海苔も、
天体望遠鏡ももらってあって、
もうほんとに景品交換所に
ほしいものがなくなったときに、
ぼくは、S社製でない
(といって、N社でもA社でもない)
たぶん香港メイドの
「ウォークマン
(と呼んではいけないんだ、ほんとは)」を、
2500発程度の数のパチンコ玉と交換した。
ぼくは、ほんもののウォークマンを
既にいくつも買っていたし、
使ってはいないけれど、
どこかにしまってあるはずだったから、
そんな偽物は要らないわけだ。
小学生の娘におもちゃがわりにやればいいかと、
雑に考えていたのだと思う。
娘にそれを渡したことさえ忘れて、
半年か1年くらい経った。
ぼくは、娘がちいさいころから、
よく親子で旅行に出ていた。
男の子のようにあつかって、
プロ野球のキャンプ見学やら、
水泳練習の旅やら、
長めの休みがとれると出かけていた。
どこに行ってたときだか、寝る前に彼女が言った。
「こんど、パパ、
イヤホンのあたらしいの買ってくれる?」
イヤホンぐらい、いくつでも買ってやらぁな。
そうか、壊れたのかい。
見れば、当時でも珍しいくらいの
不細工なイヤホンだった。
自分のちいさな頃の
理科実験セットなんかにあったものと、 変わらない。
さらに気がついたのは、そのイヤホンが付いている
「ウォークマン(偽)」の、
とんでもないほどのデカさと武骨さだった。
「いいよ、イヤホンな。
明日、どっかの電器屋で買おう」
「ありがと。おやすみなさい」彼女は、偽ウォークマンに、
だめになりかかっているイヤホンの
コードをぐるぐると巻き付けて、
そいつを大事そうにベッドサイドに置いて、
かけぶとんを頭からかぶった。
自分が、ゴミのようにあつかっていたパチンコの景品が、
家族とはいえ別の人間の手に渡って、
こんなに大切にされている。
これは、ちょっとショックだった。
なんでも買えばある。なくしても、買えばいい。
古くなったら新しいのを買う。
高いものは簡単には買えないけれど、
値段の安いものなら、いくつでも買える。
知らず知らずのうちに、自分に、
そう考えるくせがついていたらしい。
「大衆消費社会」の構造がそうなっているからだとか、
ものを大切にするべきだとか、
理論や倫理で考えたわけではない。
「偽ものの不細工なウォークマン」で、
好きなテープを聴き、
寝る前にいかにも古くさいイヤホンを
ぐるぐる巻きつけてそいつをしまう、
その姿のほうが、かっこよく思えたのだった。
うらやましい気持ちになったのだ。
その、うらやましがられた本人さえも忘れているだろう
「小さすぎる事件」が、
どの土地で起こったのかすら憶えていないが、
「こいつのほうが、かっこいい」と思ったことは、
いつまでも忘れないようにしようと、
その時のぼくは決めていた。
だから、ずっと憶えているのだ。
人が、他の人やものを大事にしているのを見るのは、
気持ちがいい。
人やものを、粗末にあつかうのをみるのは、見苦しい。
年寄りの説教のようだが、それは、倫理というよりも、
精神的な快感と不快感に置き換えられるもののようだ。
「一般に、貧しいと考えられていることのほうが、
実は豊かなのだ」
という逆説的な通念を、ぼくはあんまり認めたくない。
単なる負け惜しみ、酸っぱいブドウの寓話のような、
こころの狭さから出た
言い訳みたいに思えることが多いからだ。
しかし、「豊かであると信じていたことが、実は貧しい」
と気づかせられることは、けっこうあるものだ。
まだまだ続きそうなので、
このあとの話は、次回にさせてもらいます。
|