ADのまっとうなジーンズ。
広告の世界でADというと「アートディレクター」である。
このADは、けっこうエライのである。
ビジュアル表現の責任者なのだ。
アートディレクターの指示にしたがって
「デザイナー」が作業する。
しかし、テレビの世界でADといえば
「アシスタントディレクター」だ。
「アシスタント」と「ディレクター」という
ふたつの単語で構成されているコトバだが、
「ディレクター成分」はトッピング程度でしかない。
テレビ界のADとは要するに
アシスタントのことなのである。
ぼくは、本職ではないが時々テレビに出たりする。
だから、ADのひとたちが
懸命に働いている姿を見ることもおおい。
テレビの業界というところは、
おそらく映画界のスタイルの影響なのだろうが、
徒弟制度のなごりが妙に残っている。
ADは、そのなかでも
最下層の役割をになっているようだ。
彼らの仕事は、肉体労働が中心になる。
むろん、気が利いていること、
アイディアに満ちていることは
絶対に必要なのだが、
いくらスマートな人物であっても、
職名がADであるかぎりは、
肉体を惜しみなく使うことは
「前提」なのである。
彼らはけっしてスーツ姿で走り回ったりはしていない。
それは、芸能マネージャーのスタイルだ。
ADの仕事着は、基本的にジーンズとTシャツである。
床にじかに座ったり、ひざで歩いたり、
泥だらけになったりするから、
丈夫で汚れのめだたない服装であるジーンズは、
なによりだ。
ぼくも、ジーンズが好きなので、
他人の履いているジーンズがよく目に入る。
道ですれ違う若いやつやら、
タレントやらのジーンズに
感心したりすることもある。
だが、ADの連中のジーンズが、
いちばん「まっとう」なものに見えるのだ。
毎日毎日、働くことでできた「摩擦」の総量が、
彼らADのジーンズにはそのまま
年表のように刻まれている。
あらかじめ、適度に色落ちさせたジーンズを買い求めたり、
買ったばかりのジーンズを
ひっちゃきになってたわしでこすったり、
ぼくもいろいろやった覚えはあるけれど、
「まっとう」な色落ちのジーンズを履いていたことは
一度もなかったように思う。
だから、いつも、テレビの仕事でスタジオに行ったとき、
いいジーンズを履いたADをつかまえては
「そのジーパン、どれくらい履いてるの?」などと
質問したりしていたものだ。
無理やりに色を落として「味」を出したジーンズが、
どうもまっとうではないよなぁ、という気持ちは、
ジーンズ好きがみんな持っていたものなのだろう。
そのうち、「古着」のジーンズが流行り始めた。
ほんとうにジーンズを労働着として
履いていた誰かさんがいて、
それを、もう着られなくなったからと手離した。
きっと、ただ同然で。
そいつを買って、「いい味」のジーンズとして、
都会のジーンズ好きが履き始めたわけだ。
そうなると、「いい味」にも等級が付いてくる。
年代の古いモノがよい。
洗った回数の少ない、
色落ちのめりはりの効いたモノがよい、
というようなことになってくる。
いい味のジーンズが、
高値で取引されるようになったわけだ。
もともとのジーンズ好きには、
やっぱり「いい味」のジーンズは輝いて見える。
その輝きが、カネを出せば買えるということになると、
つい買いたくなってしまうことになる。
ぼくも、そういう人間のひとりだった。
おとなは笑うだろうけれど、
ぼくがもっとも高い服を着ている時というのは、
あちこちほつれのあるジーンズの
上下をひっかけているときだった。
アルマーニの2〜3着くらいは
買えるような値段の「中古の労働着」だ。
ばかばかしいと、思うのは、
いまになったから言えることだ。
そのばかばかしさを、逆説的なおしゃれだと、
買ったときには考えていたのかもしれない。
<「労働着」として生まれたジーンズが、
まっとうに使用され、
まっとうに天寿をまっとうしたときに、
小銭をじゃらじゃらさせながら
日本人がやって来たんじゃ・・・。>
そんなふうに、アメリカの田舎町のじいさんが
インタビューに答えているかもしれないぞ、今頃。
やっぱり、ぼくはバカだったけれど、
こんな現象がヘンだということぐらいはわかっていた。
1万円札をつなげて作ったようなジーンズを履いて、
テレビのスタジオに行くと、
「まっとうなジーンズ」を履いたADたちがいる。
おいおい、あっちのほうが、カッコイイよ。
ってゆーかー、俺って、ものすごくカッコワリーよ。
なんでも、結局カネで買える時代に、
カネで「かっこよさ」を買う人々というのは、
なんかをすでに失っているんじゃないだろうか。
(ま、援助交際を申し出るおやじも、
あきらかに何かを失っているいるということで、
同じですわね)
かっこいいものを身につけていれば、カッコイイと、
みんなが思いこんでいた時代は、確かにあった。
でも、そのカッコよさというものが、
ただの買い物の結果だったとしたら、
「すべての価値は、カネが決める」
ということになっちゃうじゃないか。
おいおい、ちょっと待てよ、と、ぼくだって思ったわけだ。
前にした「子どもの偽ウオークマン」の話と、
ほとんど同じパターンだ。
カッコイイと思いこんでいたことが、
カッコ悪くなっていたというテーマが、まだ続いている。
次回は、せっかくジーンズの話題が出たので、
ぼくの事務所を引っ越しさせた
「ジーンズ・ショップ」のことを書こうと思う。
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