大後監督にショック。
掲載される話題がかならずしも
時系列になっていないので、
そのへんのこと、あらかじめお断りしておきます。
長野の冬季オリンピックが終わったころだった。
神奈川大学の駅伝の監督・大後栄治さんに会った。
「ほぼ日」でも、コンテンツになっている雑誌
「婦人公論」での座談会のゲストだった。
ぼくは、「婦人公論」の
座談会企画をとても大事にしている。
ながいこと、ぼくは雑誌の仕事をやってなかった。
簡単にいえば縁がなかったのかもしれないが、
10年以上もの間、
継続的につきあっていた雑誌がなかった。
理由は、ぼくなりわかっていたつもりだった。
まずは、「イトイが流行ってない」ということである。
規模は別にして、
「イトイが流行ってる」時期というものも、
あるにはあった。そういうときは、
マスコミは洪水のようにやってくる。
企画は、極端に言えばなんでもいいという感じ。
「流行ってるイトイ」が
顔をだしていればいいというくらいの
「企画」がほとんどだった。
いや、そうでないものもたくさんあったんですけどね、
なにせ「洪水」というくらいですから。
その渦のなかにいるときには、
なかなか「流行っているイトイ」を
発見するのは難しい。
自分では、流行っているのではなく
受け入れられているのだと
思っていたのだろう、きっと。
世の中はオレを必要としていることが多い。
だってさ。
笑っちゃいけないけど、若き日のイトイよ、
それは思い違いだ。うぬぼれというものだよ、と、
目の前に正座させて説教してやりたいくらいのものだ。
自虐的に言っているのではアリマセン。
ただのホントのこと。
そんなに意見を求められるほど重要な人物なんて、
そう沢山はおりませんです。
自分がその重要な一員であったはずが
あるわけないではありませんか。
なんか、いま、こいつを登場させていると
「いま」っぽく見えるな、
という人ならいっぱいいるわけで。
ある時期のその役割を、ぼくもやっていたわけだ。
で、当然、洪水はおさまる。
そうすると、なんでもかんでもではなく、
2種類の要請パターンだけが残る。
ひとつは、
「元流行っていたので名前が知られている人」
として。
これは、そんなに減るものではない。
引き受けることは9割9分ないのだけれど、
講演依頼の類はほとんどそうだ。
「元」の肩書きは死んでも消えない
入れ墨みたいのものなのである。
テレビ出演も、この要素は多いと思う。
自分がテレビ的なキャラクターとして
おもしろいものじゃないことは、
知っている。だから、
なんでも出るわけではないのだが、
自分が「視聴者として興味のあるもの」には、
都合をつけていくようにしている。
でも、これは仕事ではなく、
やっぱり自分のための遊びなので、
お客さんにとっての「おたのしみ」は少ないはずだ。
だから、ナンシー関に叱られたりしてしまう。
彼女の言うことは、もっともだ。
たしかにぼくは「視聴者のちょっと知ってる人」
という役割でしかテレビに貢献してない。
こういうことを目ざとく発見するのが、
ナンシー関という人の恐ろしいところである。
自分で、「オレ、面白くなかったんだ!」と
かなり痛いところに気づいてしまったのも、
彼女のせいというかお陰なのである。
さて、もうひとつ残るのが、
「大企画」ではないけれど
「イトイがやったほうが
他の誰かがやるよりもいいかもしれない
中小企画」である。
この典型が、
「ヘンタイよいこ新聞(ビックリハウス)」や、
「萬流コピー塾」などの
雑誌連載だったのかもしれない。
どちらも、イトイが流行っていた状態の時に
連載がはじまったのだけれど、
ぼくがやっているべきだと思えるプランだった。
しかし、「イトイの流行」が終わった後では、
あのくらいのサイズの連載も
難しくなってくるものだ。
いくつか、依頼はあったけれど、
どれも、なんだか2匹目の
どじょう狙いのようにしか見えなかった。
ぼくなりに、持ち込まれたプランをもっと
面白い企画にするためには
何をすればいいのか考えかけたこともあったが、
相手がそこまで乗り気でない感じだった。
こうして、ぼくは、いろんなメディアとの
関係を徐々に薄くしていった。
この段階で、「自分にしかできない芸」を
しっかり磨くのがメディアで生きていこうとするものの
姿勢なのだろうが、ぼくは、
その本気さは持っていなかった。
それと、もうひとつ。
洪水の後くらいの年齢から、
ぼくは「家庭」を含む生活からなかば
逃亡していたので、
へんにメディアで目立ってしまうと、
また面倒な騒ぎのきっかけになってしまうと
考えてもいた。
お気に触らぬ程度にしておけば、
いろんなプライバシーを探られないですむのだから、
少し控えめにしているくらいが都合がよかった。
ま、そんなこんなで、「イトイの流行」は終わったわけだ。
一見、告白調の文章に見えるかもしれないが、
本人には、まったくそういうつもりはありません。
ただ単に、自分にあったこと、
自分が思ったことを、書いてるだけです。
こういうことは、「ものの道理」みたいなもので、
ぼくが若いやつだったころの、
メディア的アイドルと言えば「野坂昭如」「横尾忠則」
というふたりだったけれど、
このお二方の才能や技能の深みや経験や
アイディアが昔より大きく育っていたとしても、
「流行っていない」と言い切っていいだろう。
そういうものだ。
だから、ぼくが、流行ってない人間として、
なにか表現の場を持つことはとても
困難なことになっていると思う。
しつこいようだが、謙遜でも自虐でもない。
メディアに署名で表現することが本職でなかったので、
けっこう冷静に自分に起こった
「事実」の流れを伝えられるのかもしれない。
誤解を怖れずにいえば、本職でないから、
ぼくは仕事を選んでこられたのである。
むろん、そんなに山ほどの
依頼がきているわけではないけれど、
自分が面白いと興味をもった企画にだけ、
参加すればよいということになると、
ますます仕事の量が減ってくる。
なんでも断りたくなってしまうのだ。
やりたいことなら、売り込んででもやりたい。
しかし、企画をきいて
一瞬のうちにやりたいと思ったものでなければ、
ほとんどの仕事はやる気になれない。
そういう、
昔の、自分を錯覚していた時期とはちがう意味で、
ぼくはメディアから、
すこしずつ遠ざかっていったのだ。
さて、今回はこのくらいにしておくけれど、
お気づきの通り、いつものように
書き出しの部分についてまだ展開されてない。
「大後監督」はもとより「婦人公論」も出てきてない。
ま、あわてなさるな。
ちゃーんとすぐに続きを書きますから。
誰も読んでなくてもな
(と、前回書いたら、「読んでるぞ」と
一通だけメールをもらった)。
ああ、また朝刊が届いた。
もう、寝ましゅ〜・・・。
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