第17回
釣りをすることと、コンピュータ。(その5)
釣りが「なんでもひとりでやること」の
おもしろさを教えてくれたように、
コンピュータは、「なんでもひとりでやれること」の
おもしろさを教えてくれた。
一見、おなじことのように読めるかもしれないけれど、
すこしというか、だいぶんちがうような気がする。
釣りはひとりでやれることを「しなさい」、
そうするとおもしろさが増すから。
コンピュータは、まだまだひとりでできるけど
「どうする?」やめてもいいけどさ。
このちがいは大きいだろうよ。
本屋と酒場と公園とを一緒くたにしたような場所があって、
そこには、本と人とがいくらでもあったりいたりしている。
入室時間も門限もなにもないが、
止める気になったら出ればいい。
これが、ぼくのはじめて知った
インターネットの実感だった。
ぼくのいま書いているこの文章を読んでいる人は、
当然インターネットの網の目をつなげて
ここに来ているわけだから、
こんなぼくの書いていることなんか、
当たり前すぎて読む気にもなれないのかもしれない。
しかし、はじめてインターネットに触れたときの驚きは、
いくらベテランでも、くっきり憶えていることだろう。
「知る」ということは、
迷路をすすんで宝物を探すゲームのようなものだ。
宝箱をひとつ開けて帰ってくることもできるが、
次の宝箱のものらしいカギが落ちていれば、
さらに進んでみたくなるものだと思う。
インターネットをつかって、
なにかひとつのコトバを最初のカギにして、
宝箱を開いたら、それだけで戻るかどうかの判断は、
いつも、ぼくにゆだねられる。
「そのことの答えはこれだけど、
それは、こういう人がもっと詳しく知っているんだよ」
なんて、道案内の少年が話しかけてきたら、
ゲームだったらその「こういう人」ってやつの
顔が見たくなるはずだ。
で、そいつに会いに行こうとすると、
そいつには、おとうさんやおかぁさんや、
たくさんのともだちがいることがわかる。
そっちにも行かなきゃと思いながら、とうとう
そいつに会うと、たいしたことを言ってくれない。
しかし、そいつのかぶっている帽子が、妙に不思議な
「いわくありげなもの」だったりする。
その帽子、ドイツんだ?
オラんだ。
いやいや、そういうことじゃなく、
「実はこの帽子には、これこれの因縁があるんだ」
「えっ! じゃ、そこに行けば、あの伝説の・・・」
みたいなことになると、
もう、はじめに何を探していたのかも忘れて、
さらに奥深いダンジョンに潜り込むことになってしまう。
すっかり、ゲームの話みたいになっちゃったけれど、
インターネットで「ネットサーフィン」とやらを
やっているときの気持ちは、ほんとにこんな感じだった。
実際にコンピュータゲームでの冒険には、
謎をたのしみに感じさせるための
「作者によるコントロール」があるから、
次のフィールドに行こうと思ったからといって、
すぐに行けるようにはなっていない。
現実の世界では、さらにタイヘンで、
山奥に住んでいるおかしな帽子をかぶった「そいつ」に
出会うまでには、ひと月やふた月かかってもおかしくない。
それが、インターネットだと、
「知りたかったら行きなよ」とばかりに、
アドレスが記してあったり、クリックするだけで
そこに飛べるようになっている。
行こうと思えばすぐに行ける。
距離も時間も、すぐ近くに、次の宝箱があるとしたら、
いつやめるかは、ぼくの決意しだいということになる。
しかも、自分の存在は「匿名」のままでいいので、
相手に嫌われるかどうかなんてことを悩む必要もない。
いつも、ひそかに、熱心に、自由に、
どこまでも行ってもいいのである。
古雑誌や古新聞を捨てるときに、
思わず読みふけってしまった経験は、
誰にでもあるだろう。
あの状態が、いつまでもいつまでも続くのが、
ぼくにとってのインターネットだった。
こんなにもたくさんの人たちが、
こんなにも山盛りの情報をかかえて、ぼくを待っている。
読まないわけにはいかないでしょう・・・とばかりに、
コンピュータがネットにつながったその夜から、
ぼくはさらに眠らない人になっていった。
考えたいこと、考えるべきこと、
ひとが先に考えはじめていること、
他のひとが考えているけれど何かが足りないこと、
ひとつの考えと別の考えとを組み合わせること、
いろんな無関係に思えるような別々の考えが、
ひとつの考えをプラスすると共通にみえてくること、
コンピュータの外側に、本や場所や人間の「現実」が
つらなっていて、呼べば応えてくれる可能性があること、
おそらくぼくのネットサーフィンしたコースや
立ち寄ったページ(考え)のすべては、
他の誰ともちがっているであろうこと、
「考え」についてのさまざまな考えが、
湖底のわき水のように湧いてきて、
ぼくは急に忙しい人のようになってしまった。
ビジネスとして、めしの種にはできていないけれど、
いまやっていることはあきらかに「仕事」の一部だと、
ぼくは確信した。
いままでどおりに依頼された広告の仕事を考えるときにも、
オリエンテーションの資料に出てくるさまざまなコトバを、
なにげなく検索しているうちに、
新しい考えが生まれてくることもあった。
知的でちょっと馬鹿で、ぼくのペースに合わせてくれる
最高の会話の相手が見つかったようなものだった。
おかげで、まず、何が変わったかといえば、
頼まれたひとつの仕事にかかる時間と労力が
何倍かになった。
インターネットそのもののなかにある情報を
とるからだけではない。
それにリンクしている本や人を、
さらに資料として(おもしろがりながら)
読むようになってしまったからである。
釣りで「ひとりでなんでもやる」ことの
おもしろさを知ったぼくは、
このコンピュータってやつのおかげで、
「ひとりでなんでもやれる」時間ができてしまって、
すっかり「働き者」になってしまったのだった。
じゃ、またこのあとは、この次ね。
ほら、今日は、ひーひー言ってる日だからね。
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