荒俣 |
今までは、美しい女性っていうのは、
だいたいは例外なく、ぜんたいを通して
キレイなのが好きだったわけです。
・・・まあ、時々変態の人で
腰の部分だけ好きだとかいうのはいたけど。
髪の毛から足のつま先までがキレイなのを
ワンセットとして持っていないと、
なかなか気分が悪かった、ですよね? |
糸井 |
うん。 |
荒俣 |
別の言い方で言うならば、
ひとつの人格と個性がワンセットになっていた。
本もそうだし、ソフト優位という時代には、
だいたいワンセットのぜんぶがよくて、
そのどこも切れないっていう魅力があって・・・。
でも、それがばあさんになってくると、
ワンセットじゃなくて、要素を
ばらばらに切って判断できちゃうんですよ。 |
糸井 |
「ここだけでもいい」という。なるほど。 |
荒俣 |
そう。おっぱいだけはいいから、
ここだけもらおうか、とか。
尻の肉のつきかただけはいいから
ここは生かしてゆこう、とか・・・。
本への見方だけじゃなくて、
人間に対しても、そうなってきますよね。
あるところだけを特化して切り取って、
のこりは冷たく捨てることが、
デジタルの世界に入って、
どんどんできるようになってきたと思う。 |
糸井 |
ある意味では、自由になったとも言えますよね。 |
荒俣 |
そうなんです。
そういう意味では、それまでにあった
人格の呪縛や、トータルな美しさの呪縛や、
オーラの呪縛みたいなものから
本が解き放たれましたよね。
谷崎潤一郎や川畑康成の本も、昔の本だったら、
人格が入っているように言われていたから、
なかなかありがたくて
ぜんぶ切り離せなかったものですけども、
今はデジタルになって、
こんなペラペラな文庫本になったことで、
どんどん中身を切れるようになって・・・。 |
糸井 |
うん。それは、感じるなあ。 |
荒俣 |
いろんなものを切り刻めるようになったのは、
かなり大きな出来事だと思うんです。
本の歴史で言うと、
目次をつけたのは大発見で、
「頭から全部読まなくても
部分ごとに参照できるしかけ」
ができたのは、つまり、
本をばらばらにすることだったんです。
だから、捨てることもできる。
18世紀の本って、やっぱり・・・
人格ですから、破る気がしないんです。
日本の本で言っても、戦前くらいまでのやつは
岩波で出ていた『夏目漱石全集』にしても
例えば初期のものは破る気がしないですよね。 |
糸井 |
オレンジ色みたいなやつですよね? |
荒俣 |
そうそう。 |
糸井 |
あの、色まで覚えてますよね。 |
荒俣 |
ね、覚えているでしょう?
『我輩は猫である』の中身は忘れても、
あの猫の木版画みたいなやつは、
覚えてるじゃない?
あれも、トータルだったんですよね。 |
糸井 |
うん。 |
荒俣 |
今は誰がデザインして作っても、
その時にはキレイだと思いはするけども、
まず最初にカバーが外されてしまうし、
帯なんか実際には意味ないんですよね。 |
糸井 |
本を作る側の都合を書いただけですからね。 |
荒俣 |
つまり、本はただのハードになってるわけですよ。
全体のハードを切れるようになったおかげで
ついでに、ソフトも切れるようになっちゃった。
これがものすごく大きいと思うんです。
そういうデジタルの世界に入って、
めった切りのできるツールがスタートすると、
もう、乳首だけとかほくろだけとか、
そういう愛し方も、充分ありえますからね。 |
糸井 |
なるほど。 |
荒俣 |
そう思いながら、
3〜4年前からネットでいろいろ見てみると、
もうばんばん切っちゃおうというのが
如実にあらわれてきているのが、
よくわかりました。
切る快感というのも、やってみると
なかなか気持ちのいいものですよねえ。 |
糸井 |
おおお・・・。
本を抱いていたところから、ここに!
それは、ある意味では、
本に捧げた人生に対するリベンジでも? |
荒俣 |
まあ、リベンジでもありますね・・・。
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